優柔不断であることの背景。
私は自分でもどうしようもならないくらいの優柔不断だった。
それが最近、いつまでも悩むくらいならそれを必要と思わないし、自然と決まるようになった。悩んでるのに時間を費やすのはもったいなくてね。
自分の変化を感じられるという自分の感覚がうれしい。
自分と向き合う中で、一つずつ、整理されていまがあるのだと感じてる。
きめた、かわろう!じゃなくて、変わりたいと願い日々を積み重ねるうちに、変わってた。
そうして思考も行動も習慣も変わってた。
その後に来る、自分の変化を感じる時間。
私の場合は子どもの頃に、自分で感じて考えて、行動すると言うことが許されなかった苦しみから、我が子に虐待しそうになり、そんな自分に驚いて、もがきひとつずつあるいて、自分と向き合って今がある。
その中からそんな自分の能力が顔を出してくれたのだと思う。
優柔不断。
これは多分、親に「私が決める」と言う機会を与えられなかったからそうなったんだろうな。
これにもかなり苦しめられました。
でもその苦しみから、私が見出したこと。
それは、小さいうちに自分の感覚で選択し、自分で動き、それを経験することの大切さ。
なにかを選択する時、あるいは選択した時、それは自分の中にいろんな感情がうまれる。それは自分を満たすものであるかもしれないし、恥ずかしいとか、相手がいた場合は申し訳なかったなとか、一緒にこのじかんをすごせて心地よかったなとか、もういくつもの感情がともなうものだとおもう。
その感情を味わい時間がとても大切で、それを大人がこれはしていいこと悪いこと、と言う答えに持って行ったら、自分を生きることができなくなる。
素直な自分がわからなくなる。
いつも親が決めてきた世界から大人になって解き放たれても、選べない。
それにこのみちがあんしんだからって親が選んでくれた道は本人にとって安心じゃないことがじつはおおかった。
今時、こんな服着て行ったら笑われるよ!
私はいつでも母を怒らせないために、幸せになってことがないと言う母を笑顔にしたくて、それでも着て行った。
みんなの目を感じる不安。そしてその場に自分の力であわせることも経験できないまま大人になった。
自分らしさを知らず、自分の力で今いる場所で気持ちよく過ごす方法も自分で生み出せない。
おさないころからずっと抱えてきた苦しさはどうやらそれだったみたい。
自分にとっての心地よさを感じる経験を小さな頃から生み出していたら、もっと安心して生きてこれた。物事が決まらないこともなかった。
今はそう思う。
そうはいっても、必要があってこの人生になり、生きてきた中でたどり着いた今がある。
だから悲しんでいるのではなく、改めて自分の今の気持ちを整理してる。
我が子には自分の感情をじっくり時間をかけて味わって欲しい。
そして自分の感覚で、心で、足で、いろんなことを経験したらいい。
だから私は待てる大人になりたい。
今でも、以前よりはずっとなりたい大人になれた。でももっとまてるおとなになりたい。
旦那さんにも我が子にも、怒りで相手を小さくさせるのではなく、どうしてそういう姿を見せたのかを落ち着いて想像しようとする人でいたい。
私がなにをしてあげたか覚えてるかどうかはどうでもいい。どんなに我が子が小さくても楽しい経験を一緒にしていきたいと思った6年前。そんな日々を積み重ねて、そう考えた理由が今になって自分の中で言葉になった。
彼らが自分で感じることを大事にしたかったから。
あの頃は私がこれ、面白いかも、って引っ張ってることが多かった。それが今となって気づきとなり反省してる。
あの頃は楽しいことを、とばかりおもってきたけどいまは違和感も悲しいことも嬉しいことも、ここちいいとかわるいとかもたくさん味わって、身体をずっとマッサージしながら自分の人生を生きて行ったらいいとおもう。
そのそばで静かに見守ってられたらよかったんだな。
あの頃の私は頭でっかちで余裕も経験もなかった。子どもの頃に、自分のしたいことをできなかったこともてつだって大人になっても自分で選ぶ力が弱くてたくさん迷走しちゃってね。
自分のしたいことに、まだちいさなこどもたちをつれまわしたりもしたな。
こどもたちがいてくれてうれしかった、だから、いまは、小さな子どもたちがどうしたいかに耳をすませられればよかったのに。無理してたくさん移動して、もっと取れたはずの今ここで、じっくり遊ぶ時間をとれなかったね。
これもすごく反省してる。
付き合わせてごめんね。
けど、全ては意味があってこれを過ぎて今の私がいる。
自分のしたいことの中の一つは子どもたちが今を思い切り味わってる姿にふれること。
それをあらためておもうから、今は、やりたいこととできることを調整して、家族と一緒の今、を感じられるようにしてます。
さいきんおもう。
今でもこれどう?って情報をもってきてはすすめてみることもあったけど、そこに私が、彼らの未来を心配する気持ちが伴ってるかどうかをかんがえる。
子どもたちがどんな人生を送るかは私が心配することじゃない。
未来を心配してもそんな未来になる可能性はそんなに高くない。
だから私の期待をそこにのせないようにこころがけてる。
それよりもいま、彼らが感じることに耳をすますこと、彼らが私に伝えてくれたことに耳を傾けること。
それが今の私が最大限できる、私が彼らの人生を邪魔しない方法なのかもしれないな。
人生経験未熟な私が親としてできることは、彼らの人生を邪魔しないことだけだなあって改めておもう。
彼らが感じたことの中からもらうたくさんの気づきに、今になって、成長する機会をもらってる。
私も、今、たくさんの感情を味わい、もっと彼らのことを理解し、愛し、今の自分と旦那さんを受け入れるトレーニングをしてもらってるんだよね。
そしてそんな未熟な私を家族に持った我が子や旦那さんにとっても学びの一つなのかもしれません。
ありがとう。
まだまだわたしは成長過程です。。