日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

自分と向き合うこと。今の自分を受け入れること。

最近、昔の感情が蘇る感覚を自覚できるようになり、気持ちが揺れる感覚も、自分じゃないものを見てるように感じることがある。

 

そんな時があった2週間前。

イベントに参加した時だった。知ってる人ばかりのイベント。

その時に何人かの人が盛り上がってるのを見ていて湧いてきたかんじょう。

 

学生時代に、みんなが盛り上がってる中に入れない自分が悲しかった。

文化祭で、いえーい、ってなってるときも私の心はいつでも見られてる自分への不安の方が大きくて。

楽しんだり、心から笑ったりするのができない人だった。

 

それを手放し、心から楽しめるようになった今、そうじゃなかった頃の感覚が蘇ると、あれーという思いとともに不安になってゆく感情も感じられるようになった。

自分らしく生きられるように変わって行くことの安堵感の中に現れた、不安。

ああ、私は今、不安なんだ、と自覚する。

そして気持ちが揺れてる自分に仕方ないよ、そうだった自分を認めて、受け入れて、それを土台にしてどうなって生きたいかを整理してただ歩いていくしかないのだから、と言い聞かせる。

 

これを何度も繰り返して、気づいたら、そんなことしてたことをわすれるくらいになってるだろうとおもう。その時が本当にかわれたとき。

 

かわっていこう、って言ってるうちはかわってないんだ。

変わるのは思考だけでは無理だから、心も身体も全て連動して、行動が自然に変わってたときに初めてそこを超えたことになる。

 

だから、ゆっくりかわっていけたらいいなとおもう。

なんどもおとづれる、苦しい時の今の自分、を受け入れられたらこの不安から解放されるんだろうな。

 

この時のイベントで、この感情に揺れた気持ちが辛くて、自分も参加をしてみた。

誘ってくれて友人がいて盛り上がりの中に入った自分がいた。

その友人との時間は楽しかった。

けれども、この輪の中に入れた自分はそれほど楽しくなかった。

 

なんで、わたし、もりあがりのなかにはいりたかったんだろう。

学生時代に10年以上抱えてきたこの悲しさが一気に吹き飛んだ。

 

自分が心から楽しいと思うことにいえーいってなればいいことであって、人さんが盛り上がってるのを羨むことはなかったんだな。

誰かとつるめない自分は寂しいやつ、っていうのはおもいこみにすぎなかったんだな、と学生やめて18年も経ってしった。

 

自分がしたいように、丁寧に自分と接していけば、わずかでも深い友人がいてくれる。

友達100人いなくてもいいんだー。。と頭でわかってたつもりだったけど、いきなり腑に落ちた。

 

不安が一つきえました。

こうして今の自分をを受け入れて責めるのではなく、どこかで変わって行くのだろうと信じて生きられること、そんな自分で家族と仲良く暮らせること。

私がずっとしたかったことなんだと、はっとして。

 

自分を大切にしていけたら、ストレスからくる橋本病も楽になって行くのかな。

自分のそばにいる人たちと優しく楽しく、暮らせるのかな。

 

自分の感情と向き合い、振り返り、整理できるようになってきた今日この頃。

長い長い心の旅。

 

でもこうして誰のせいにするでもなく、自分の問題として処理をしていける感覚をつけつつある自分が嬉しいなと思う。

とりとめない自分との時間。

 

ミシンを踏む時間が好き。

とめどもなく好きなことを見つけられたという奇跡は、私が私でいることをささえてくれてるきがします。布が立体的になって行くこの作業が好き。

自分が好きだっていう感覚をキャッチできた自分によくやったねー、よく超えたねーと嬉しくなる。

まだまだ超えて行くものがあるけどきっとだいじょうぶ。ゆっくりいこう、わたし。

 

水通しした布が風に揺れるのも好き。

サロペットスカートとタイパンツに仕立てます。

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