日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

最寄りのバス停まで。

4キロ、徒歩2時間の道のり。

 

少しずつ少しずつ歩くことから始めやっとなれて来ました。

夏より早い冬の道。

それは何たってソリがあるから。

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今日はいい滑りぐあい。

二人でキャーキャー引っ張りあったり喧嘩したり。

坂道はお弁当持ち係の大ちゃんの荷物をそれにのせて。

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車通りが少ないので歩道に何度も倒れてみるムスメ。

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ソリのスピードが結構早いので置いてかれてないてるムスメ。

所々にある農家さんからたつ煙。ここらは薪ストーブのお家も多い。

遠くに山、近くに何もない真っ白な雪原。ついでに煙突から出る煙。

このロケーション、大好き。

胸にすっと気持ちのいい風が通る。

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4キロの道のりだけど、幼稚園までとおいけど、ここに越して来てよかったねと大ちゃんと話しながらの道。

 

サハイナンで家族四人で不便だらけの暮らしを積み重ねた時間。

めんどくさい日もあります。

けれども不便さが当たり前になる頃には、身体が強くなってるね、と変わって行く楽しみを大ちゃんと共有してる。

こうしてはたからみれば大変でしょ、って言われることを楽しめる心が身についたこと。

それは素晴らしいことだなあって思います。

自分たちにとって大変なことが減って行くことになるから。

 

ここに来て一年経つ頃には4キロ歩くことすらちょっとそこまでになってるのだろうとおもいます。

手間をかけて暮らすことが趣味になってる。

それもいいな。

 

うちの洗濯機が壊れてくれて、自分が車の運転ができなくて、水道からお湯が出なくてお風呂がない暮らしを経験してよかった。

自分たちの暮らしの中に季節がある楽しさをしり、草の実集めたり、そりすべりしたり、一緒に楽しめることが増えた。時々体調崩した子供達見て、車が運転できたらそれもよかったかもと言いつつ、やっぱりガソリン使って出かけちゃうし、買い物もしちゃうし、旦那と取り合いになるだろうし、笑笑。何より、今は調子が悪いから気にしててくれる?と旦那さんに声かけることで、こどものことをもっときょうゆうできるようになった。

 

手動洗濯機のおかげで便利にすごさを常々感じてる。これをつくったひとはすごいよなあ、と機会をいじる人を見る目が変わった。でもお風呂もお湯も洗濯機も使えない不便さを知ってるからただありがたいと思って使える。

子どもたちに食べ物に感謝して、とか言わなくなったし、何より言葉で伝わることなんて本当にわずかで体験を伴わないと自分のものにならないって私自身が知ったから、何もいう必要ないのだと今は理解してる。伝えたいならば自分がそうすること。言葉でなく、身体で、心で表現して行く。本当にそう思う。

 

キッチンに水道がなかったからお水だけでありがたい。で、どこかに出かけた時にお湯が出るってすげーって思う。旦那さんが1つずつ作ってくれたおかげで、これはどうなってるんだろうって子どもたちも含めて、興味が広がった。だからどこに行っても面白い。

 

お風呂のない暮らしはじぶんにとって当たり前がどれだけあったかを思い知らせてくれた。今は2日に一度お風呂をお借りしてる。自分たちの暮らしが支えてもらってることばかりで感謝をすることしかないことを痛感するこの4ヶ月。そして身体を温めたいからお風呂に入れない日はストーブの上の夜間で足湯をして寝る。そうしてふと思う。今の時代の流れで、頭で考える癖がついてるから、お風呂なくても大丈夫じゃん、キッチンなんて共同で大丈夫だよ、きっと、なんて言ったこともある気がするけど、自ら現実に経験してみないと言えない言葉だったなって。

 

うん、大丈夫。だけどその分、丁寧にしていかなければならないこともたくさんある。

人様との関係とか、使ったらそのときに綺麗にして誰かが嫌な思いをしないように想像して動く、とか。

今は体裁ではなく、社交辞令ではなく、心から出る気持ちでそう動ける大人になろうとおもう。自分がどうありたいか、それしか伝えるものも、伝わることもないのかもしれません。

 

自分を振り返り、人の目を気にしてしか動いたことなかったなっておもう。

これをしたら相手はどう思うかな、ゆっくり自分で考え動いて修正する時間もなかったしな。

学校でそんなことしてたら先生交えて話し合いだった。

でも一番覚えてるのはこんなことしなきゃよかったなって思いを自分一人で抱えて居たこと。

私の場合は信頼できる大人が作れなかったって問題含んでるけど、自分で抱えて自分とちゃんと向き合って来た時間だと思う。辛かったけど自分はもうしないんだとこころにちかってきた。

 

今は小学校も幼稚園も親に困りますーって電話がかかってくることが多いらしいです。大人を交えて話さないとならないようになってしまったのは、小さな頃にやんちゃして色んな気持ちを味わう経験が少ないからだろうか。

小さい頃にたくさんたくさん人と関わり、自ら色んな思いを経験する事って大切なことなんだろうな。

おもちゃの取り合いも大人が解決してしまえば、大人の命令でしか動けなくなってしまう。

 

色んな感情を味わい、こころのマッサージをする事ができたらよかったな。

自分の小さき頃を思い出しそう思う。

だから自分は待てる大人になりたいと、日々、日々、積み重ねて行きます。

まだまだだなー。。。。。。。ごめんね、こどもたち。