日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

優しさと想像力。

9歳になった大ちゃん。

家族で、兄、妹でいる時間が長いこともあってか、私たちを想ってくれる気持ちがたくさん目に見えるようになりました。もちろん今までも彼の思いは感じていました。

 

けれども今はね、行動でも示してくれる。

というか、一緒に過ごす時間が長かったから、私がそれを感じられるようになったのかもしれない。

 

何時までに何かをせねばならない、ということに追われていないこともあってか、誰かに手を貸してくれることが多々ある。

 

私が疲れてゴロゴロしてると、必ずと言っていいほど、できたてのお茶を作ってくれる。

幼稚園でお祭りがあったり、何かイベントに出かけると、一通り自分で楽しんだ後、家族一人一人のお土産を探してきてプレゼントしてくれる。

私が大好きなお裁縫に没頭していると、じゃー、今日はぼくがご飯作ってあげるよ、と、作り始める。それも一度や二度じゃない。今でも度々。お料理好きなのはあるけれど、その背景にある優しさをかんじてます。

私や旦那さんが、いつもここに置きっ放し、やめてー、なんて感情的にイラっとしても、一通り自分の言い分をいったあと、いつもごめんね、と言ってくれる。

誰かの気持ちを想像して、今、待っててくれてるなあって思うことをたくさん感じる。

 

家族で通える幼稚園だったから、小さな時から、私たちと共に過ごす時間が長かった。コミュニティのみんなに助けてはもらいながら、そばで彼の存在を感じながら過ごし、今、何を感じてるのかな、と想像する訓練をしてきたように思う。そして逆に彼にとっては、私たちの動きを知ってるからこその配慮があるのだとおもう。

そして幼稚園が赤ちゃんから大人までいて共に過ごしてくれる場所だから、周りに配慮することをそこで教えてもらってきた。それも、彼のペースで考え、時間をかけて。

 

彼が自分のペースで自分の心や人と関わるなかで、たくさんの調整をしながらみにつけてきたこと。

それからね、最近気づいたこと。

人の想像力って道徳の授業じゃなくて笑、暮らしから生まれてるんじゃないかということ。

昔は、食べ物を作るのも家を作るのも自分たちだった。

だから子どもたちは自分の大切な家族が苦労してると思ったらうごくよね。

それがお手伝いとなる。

お手伝いって、相手への気遣いであり、相手の思いを創造する力から生まれたもの。

そうして動いた中から相手のいろんな気持ちを感じ、もっといろんな感情を味わって行く。その中で、他人への思いや想像力をみづからそだててゆくのだろうなあと。

 

お手伝いしたらお小遣いあげる世の中にはたと違和感感じて、我が家でそういうシステムを導入してなくてよかったな。

私は、常識、非常識、いい、わるい、で教えられてきたけど、そうじゃない。

常識、というのは優しさから生まれるもの。

相手を思う気持ちからの行動にしていきたいなあと自分に話しています。

 

以前の私は子どもを育ててる、というつもりでいました。でもなんだかやりずらいぞって思ってから、5年たっていまは子育てしてるというかんかくではなくなり、この子との関係を深めていくという感覚ですごしています。そう、子どもたちは親である私たちのことを理解しようとしてくれている分、私も理解したいと思う。子どもの方がずっとりかいしてくれているから。

 

日常の中で自分の思いを述べる前に、この子の思いを聞きたいと思う。親である時点で絶対権力を得ているので、そこには配慮をしなければと思う。

 

そうして一歩引くようになったら彼の思いや行為がもっと感じられるようになった。話を聞き、はなしをする。感情が先にたち、そうはいかないこともあるけれど、そうして時間をかけて、関係を重ねてきた今がある。

 

だから、私が今したいことと、できることを分けて考えるようになった。この時期の我が子と居られるのは今だけ。じゃあ、この人たちとの暮らしをどうしたいか、そう思うと、自分のしたいことは今しなくてもいいかなって思える。

 

この子たちと共に過ごし、何をみてるのかな、かんがえてるのかなって理解するために時間をかけたいと思う。

この子たちから自由になりたいとは思わなくて、そんな風に今を自分としていきられるようになったことがうれしいとおもう。

子どもの生き方を見ていると柔軟で優しくて、創造性に富んでいて、生きることのせんせいだなっておもうから。

 

積み重ねてきたこの時間を今実感して居ます。これからもまだ色々あると思うけれど、自分が母として自分として、物理的に子どもたちと過ごしてきた時間、寄り添おうと努力してきた時間があるから、今お互いに信頼して穏やかな関係で居られる。

自分の過去と向き合うのが辛くて、めんどくさくて、一緒にいるのが辛い時もあったけれど、我が子が求めるからそばにいる努力をしたこと。前は嫌々付き合ってた時期もあったけど、今そうじゃなくなった。ここで寄り添うことは自分にとって我が子にとってどういう風になってゆくのかをイメージして、すごしてる。今まで積み重ねて時間のなかで、得たことがいきてるんだな。だから「我が子と過ごす=自分が柔軟になって行く、その時々を楽しもうと努力する」、という、自分がこれからまた人として素敵になって行くための練習をたくさんさせてもらってるとおもってます。

 

我が子たちは安心感の中で暮らせるようになったのかな?

野暮ながら聞いてみる。

「そりゃそうだよー。このうちでよかったよー。」

そう思ってもらえてありがたいな。

私は家に帰るのが好きじゃなかったから。

 

親子関係を丁寧に気づくこと。

それが私にしかできないことであり、我が子の人生に今も、これからも、大切なことなのだなあとしみじみ思う。もちろん我が子だけではなく、他の人と関係を作るうえでも忘れずにいたいな。

 

スルメをもらったからと、松前漬けを作る大ちゃん。

本当にお料理好きだな。

醤油が食べれない妹のためにはお塩を使ってもう一つ作ってくれました。こゆは嬉しそうに自分専用の松前漬けを食べる。こんな配慮にもむねがいっぱいになるよ、ありがとう。日々、たくさんの幸せとちょっぴりの大変さ。昔は今日も1日疲れたなぁ、でおわってた。こんな風に自分が捕らえられるようになったのは家族のおかげ。家族を悲しませることは一番したくないなあと改めて思う就寝前。

 

いつもありがとう。

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