日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

我が子に寄り添う時間。

我が家の男子チームは1週間、私たちは4日弱ほどの東京滞在を終えて札幌に帰ってきましたー。

 

大ちゃんは旦那さんのお仕事におつきあいし、トランジッションジャパンのイベントや、旦那さんの会いたい人に会いながら、いろんな思いで過ごした1週間。旦那さんも大ちゃんの希望に寄り添ったそうで、突然中央線に乗ったら小渕沢に行ってみたくなった大ちゃんのおつきあいし、山梨まで行ってきたそうだ、笑。

 

二人の話を聞きながら、お互いに日々の目的のある時間を、思いやりあいながら過ごしんだなあって感じ嬉しくなった私。旦那さんは、自分に付き合ってくれた大ちゃんに寄り添うために小渕沢まで付き合ったそうですが、(私はいつもこんなもんですけど、笑)、ぎゅっと二人の関係を深められるいい時間を過ごしたようで最終日、大ちゃんは、パソコン仕事をカフェでしたいという旦那さんをみとめ、知らない場所で自分で時間を過ごすと決めたそう。

 

ゆりかもめは海の上を走るんだよ、って私の言葉に惹かれ、東京に行ったら乗る、と決めていた大ちゃん。ゆりかもめに乗るために、一人ゲストハウスから冒険に出かけたそうです。

 

その一歩までの共に過ごしてきた時間。

 

「一緒じゃなきゃ、嫌だ。」から自分がやりたいことのために自分で動く、いつか彼がそうできることを心のどこかに置いて出来る限りの気持ちに寄り添ってきました。ちょっと無理して、かれの、「したい」におつきあいしたこともたくさんありますが、そんな時間の中でいつの頃からか、私の中には遠い道の先に、したいことに向かって自分で地図を組み立てる大ちゃんの姿を想像していました。

 

旦那さんとも、何度も話し合った子供に寄り添う時間のこと。

自分はやりたくなくても、いつも無理する必要はないけれどやったほうがいいこともある。

彼らの人生で、今を身近なところで寄り添えるのは私たちだけで、彼らが人生を楽しんでもらいたいと願うなら、親として、「寄り添う」、必要がある。

「寄り添う」ってどういうことだろう。

 

自分が先回ってしたことは自己満足で終わる。

最近まで私の子どもたちへの行為は、喜ぶだろうって思って勝手に手を出したり、好きそうなものを買って帰ったりすることがよくあった。もちろん今でもその気持ちが勝ってることもあって、そんな自分にどうしたいか問いかけることが度々ある。

もちろん、そんな行為に、子どもたちは喜んでくれてることもある。

でもね、本当に喜んでくれる時もあれば、私が喜びだろうって思いに応えるために、喜んでる表現をしてくれることもあるんだよね。

そんな時、それは私の自己満足。

結局は何をしても全て自己満足なのだけど、できる限り、子どもの思いを想像し寄り添う形でいたいとおもう。

 

喜ぶだろうって、いつでもサプライズを企むより、どうしたい?って聞くほうがいいこともあるし、言葉にしても行為にしてもこちらが先に口出すより、本人がこうしたいんだっていうのを待ったほうがいいこともある。子どもたちの心の中で膨らんでやりたい、と思った時、彼らの中から気持ちが溢れてくる、そのタイミングで手伝ったほうが、彼らにとって満足感が大きいんだ。

 

寄り添うってね、多分待ってることがほとんどかもしれない。

彼らの思いが溢れることを待ってること。

その思いにこころをかたむけること。

 

この気持ちをどれくらい察することができるかは、一緒にいる時間に比例しているようで、大ちゃん9歳にしてやっと小さな1つの答えが出た気がする。

色々あったけど、一緒に過ごしてきてよかったって思う。

彼のしたい思いのさじ加減をいくらかでも察することができる母になれたから。

 

子どもが一緒にいたい、と思ってくれる間は一緒にいようという自分の選択は、時間をかけて自分を母にしてくれたんだとおもう。大ちゃんにとって、こゆにとって、それぞれに母としての寄り添い方はちがうもの。どうして行ったらいいのだろうってね、今もいつでも考えてます。

 

ここまでの道のりながかったな。色々な経験を重ねながら、やっとあれしたら面白いと思うよって引っ張って前を歩くのではなく、少し後ろをついていくほうがいい気がする、ときづき、黙っていられるようになった。

大ちゃんが小さい頃はしきりに歌を歌ってたり、虫がいるねえ、あれは何だろうねえって話しかけたりしてた。けど、子どもの興味はこうして育てるより、静かに彼らは感じるのを待つほうがいいなと今は思う。いろんな育児本読んで彼らの時間を邪魔してたんだな、笑。

 

最近の私は、車を使えない私なりに、母子3人電車で海水浴に行ったり、バスを乗り継いで豊平川の源流の方に行ったり、藻岩山に登って、化石が入ってるっていう子どもたちに付き合い、延々と山道を石持って歩いたり。。

子どもたちがしたい、ことを中心に動くので、その日のその瞬間に1日の動きが決まります。

私が決めておくのではなく、子どもが決めるので、予定通りには全くいきません。

 

いろんな気持ちのぶつかり合いもありますが、私は、今、人として、「待つ」こと、寄り添うこと、今できることを見極めること、を学ばせてもらってるいまのじかん。

 

自分のしてあげたいことと、本人が求めているものは違うから、余計なことはしない。

けれども心を寄せて、なるべく自己満足にならないように、我が子が求めていることに耳をすませる。

これがすごく難しくて、いまだにすごく難しいと思います。

 

子供に寄り添う、ことについて考えるきっかけをくれたある人は言います。

今の時代は、社会の流れの影響で、子どもを産んでも、母として必要なことを忘れてしまっているきがする、と。

 

虐待件数が過去最多、という記事を見て、それを思い出します。

この人に出会わなければ、この数字のカウントの一人は我が子だったろうと。

 

暮らしってなんだろう。

家族って何だろう。

母である、妻である、ってどういうことだろう。結局は全て自分であることに代わりはないのだけれども、いつの時間も家族の中で自分が気持ちよくいるにはどうしたらいいだろうって考えてる。

 

自分の気持ちに、家族の気持ちに、「寄り添う」。

いつまでも成長していける人でありたい。

 

 

昨日の大ちゃんの買い物。

一人用の土鍋。

これでこゆとふたり鍋をするって大事に持って帰って来ました。

豆腐を作ろうと思って一昨日からお豆をうるかしたけど、昨日たくさんおあげをいただいたので、豆腐はやめて豆乳になった。

それで豆乳鍋を作った大ちゃん。大好きなおあげたっぷり入れて。

喧嘩したり、どちらかが猫見つけたーって言えば二人で追いかけてったり、二人きりの鍋を囲んだり。

どちらかが、もう嫌いだもんね!って言えば、こゆは悲しくなって、涙流して泣いて、大ちゃんはじゃあ、もう遊ばないって怒って。

お互いに本当に大好きなんだなあとかんじて、そのやりとりもうれしいなと笑えてくる。

4つも離れてるけど、一緒にいたいと思う。ともに暮らすって楽しいなって彼らをみてると思います。

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家族っていいなあ。

兄弟との関わりも薄かったからそれが寂しかった私。

3人しかいないきょうだいなんだから仲良くして、って言われてたけど、両親とも兄弟と仲悪いのに?ってどうしようもならなかった。

旦那さんはその逆で今でも仲良しすぎる兄弟。

そのおかげかな、私の寂しかった思いもこうして報われたというか、実ったというか。

自分の経験も意味があったんだろうな、今はと思います。

 

家族っていいなあと毎日思えることがありがたいね。