人が暮らすということ。
人が生きていくということを感じる。
人が暮らすということはどういうことかを感じる。
私たちが暮らすスペースを少しください、と言って始めた山暮らし。
けれども日当たりが悪すぎて周りの木を少し切らせてもらった。
旦那さんに立ち会って私は娘と幼稚園へ。かえってきてね、その光景をみて、絶句。
おおきな木が数本倒れている。
まず木に謝ろうと思った。
そしてありがとうもつたえ、切り倒す前にお清めをしていてくれてるけど、私も神様に気持ちを伝えるために、お酒を持って木を見て回った。
きちんと自然に対して向き合いたいと思う気持ちが、ここに来てから日に日に蘇ってくる。
自分がこうしていかさせてもらっていることに、ただただ感謝しかないと思う気持ちがつよくなってゆくから。
何十年、ここで育って来た木なのだろう。
我が家一家が住むためにこの木々を切らせてもらった。
この木を倒したことで、家中のカビ問題が解決して、冬の北海道の寒さをしのぐまきになってくれる。
それから自然から生み出す暮らしを形にしたくて、これでまな板を始め、簡単な家具を作らせてもらおうと思う。
言葉ではうまく言えないけれども。
けれども、アウトドア、というのとは違う感覚で、自然は私たちに寄り添い支えてくれてるんだという思いがこの森の中で日に日に強くなっていっています。
野生の動物がここに住むのに木を倒したりしない。
こうして木を倒した、水を運ぶ水道管をうめ、火を起こすのは人だけだということも。
人が暮らすのにはいくら小さく暮らしても他の野生動物には敵わないくらいのエネルギーを使い、自然に手をかけさせてもらうのだと痛感します。
私たちは便利しか知らないなか育って来ました。
だからね、それが悪いわけじゃあ決してない。
でもね、この便利さをこれからどれくらい使い、自然の存在をどのくらいかんじて暮らしていくのがこれから生きていく子孫のために必要なのか、考えていくことの必要性を感じています。
子孫が幸せに暮らせる暮らしが自分たちの心をみたし、幸せにしてくれると思えてならないから。
自然は人の手では戻せないものであり、人の技術を使えば木々が少し早く育つかもしれないけど、人の手を使わずに時間をかけて育った木々ほど丈夫なものはできないんじゃないかなって思うのです。
やっぱり人は自然にはかなわないって、そう感じているから。
倒させてもらった木の中に山ぶどうがありました。
ここから丁寧に探しだし、大ちゃんと採取。子どもたちにジュースでも作ろうと思います。
ツルも使いたいけど、本来、カゴ用のツルの採取は梅雨時だとか。恩恵全てをどう使えるか考えて無駄にしないようにしたい。
便利さに頼るいぜんに、私たちは野生動物と比較してもこんなに自然から得させてもらってる。
それを忘れてはならないんだと痛感する今日この頃です。
そしてね、自然の暮らしの中で人はどうしようもないことを受け入れる心や謙虚さも身につけているのだと思います。
自然の中でのくらしはどうしようもないことがたくさんあるから。
でもそれ故に、いきるのがらくになったぶぶんもたくさんあります。受け入れるしかないことは、ジタバタしても仕方ないもの。
我が家のホームスクールは子どもたちだけでなく、私たち大人も共に学ぶばでありました。