日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

子どもに世界は大人の鏡。。

小1の壁、って、ヤフーのニュースを見た。

 

小学校一年生で、学校の授業について行くのもままならないまま、夏休みを迎え、両親は仕事、子供は学童。学童に行くにはお弁当もいる。旦那さんは仕事で忙しく、自分も忙しいのに一人で仕事との両立。子どもが学校から連絡帳を書いてきても何書いてるかわからない内容で、その成長具合にも不安、そのうえ保育園の時は園が働く親に対して全面的に協力してくれ、親が直接縁に聞けばよかったけど、学校に入った途端こどもだよりの連絡の取り合いになるから、母親がよけい不安になる。。夏休みの宿題もたくさんあるからそれに付き合えるかも不安。。ついでにその人の友人に年々、長期休みになると、学童にいきたがらなくなると聞き、それも不安。。

 

、、、という記事を目にした。

この記事を見る限り、母親目線に立った記事だった。

けども、わたしはこの子の行く末を案じて不安になった。。

いや、この話が本当ならば絶句、でした。

 

多分、多分だけど、そもそも、このお子さんは人とこころのコミュニケーションが取れる環境にいたことがあったのだろうか。。

保育園にはいっていたそうだけど、1番の問題はこの子の心の安心が今まで得られてなかったんじゃなかろうか、っていうことなきがします。

このままいくと、夢の持てない人間になり苦しむ生き方になってしまう気がします。。お母さんが自分に不安しか抱えていないとすれば、そう生きて行くしかなくなってしまうというか。自分で自分を認められず、いつも不安で、消えてしまいたいって思いながらこの先の多くの時間を生きてゆくことにならないだろうか。。

 

そもそもそのお母さんの不安は、子育てに対する諸々の心配ではなく、意識の下での我が子の生存危機の不安なんじゃなかろうか、って感じています。

人は動物だから人とコミュニケーションが取れないということは、生存危機の不安に繋がると思います。

 

世の中の動きが、子どもは保育園に、高齢者は老人ホームに、障害者は施設に、って感覚が強いように感じています。

全てではないにしろ、寝たきりになる率の高いのは、先進国の高齢者なのでしょう。寿命が延びたのに、(言い方悪いけど、)ヘルパーさんや便利な暮らしに彼らのやることを奪われてしまい(もちろんたすけてもらってることもたたあるとおもいます!)、身体を壊したことをきっかけに動けなくなって行く。

 

家族で畑をやり、子供を育てていた頃はどうだったのだろうって想像しています。そして実際に聞いたりもしています。

日々やることがたくさんあった頃、タイの村のようにいつまでも暮らしに参加していたそうです。畑や孫のお守り。そうして暮らしの中に高齢者がいるから、高齢者を煙たがるということもなかったのでしょう。今は老人ホーム訪問のようなことを小学校とかでやってるけど高齢の方を手伝うのは日常の行為の一つだったのだと思います。もちろん高齢者の方がいろいろな世代の人と関わることが日常の行為。街の中でおじいちゃんを助けてくれた子どもを見て感動した、ってCMがあったりするけれど、タイの村ではいつだってそうでした。それは素晴らしいことであるけれど、それっていつでも優しさが使えていたってことですよね。それはもっと素晴らしいことなのだろうなって。

障害を持った方も一緒に日常の中にいることで、私たちも自然と彼らのことを理解してフォローすることができているようになってると思うのです。私たち健常者と言われる人も多かれ少なかれ、発達障害的なとこを持ってると思うのです。コミュニケーション苦手だったり人の目を気にしすぎる事もそういったことの中に入ってくるのだと思うのです。だから、得意不得意を共に暮らす地域でフォローし合えたら一番暮らしやすくなるのは自分自身なのだろうと想像しています。障害と言われるような不得意なとこも含めて、その人なりのすごさがあり、お互いに楽しく生きることを学び合っていけるはずなんじゃないかって想像しています。例えば、障害を持ったお子さんが学校のクラスにいること、(いやみんな障害持ってるけどね。)、そのことにより、人の不得意さを責めることの意味のなさを学べる気がします。現行の教育システムじゃ先生に負担多すぎて難しいのかもしれませんが。。

 

勉学よりもまず大事なことってそういう人の優しさとか、気持ち良くくらすにはどうしたらいいだろーってことな気がするなあ。そうしてコミュニケーションを丁寧にして行く世の中があれば小1の壁は無くなる気がします。

 

小1の壁、それは今の世の中の漠然とした不安がこうしてまた一つ、形になったってことだけなんでしょうけれどもね。子どもたちは大人の鏡ですから、彼らの問題ではなく、大人たちの生き方の問題なんだと思います。ふあんなくくらすにはどうしたらいいんだろう、って多くの人が考える必要があることを教えてくれてるんでしょうね。

 

そしてね、子どもがあちこちにいる地域は、子どもの声を騒音とはみなしません。それによって音に神経質なひともへっていくとおもいます。どちらにしろ、便利な世の中になって暮らしにくくなった部分もたくさんあるのでしょうね。

 

便利も不便も、メリット、デメリットはさほど変わんないんだろうとまた思います。言い換えればマイナスに思われがちな、不便ということ、これも楽しむことができるんだと思います。我が家だけかな、笑。

 

いやはやニュースの話になるとうちの大家さんがいつも涙流します。

テレビなんか見ない方がいい。どうしてこんなことばっかり起こるのかと、悲しくなるから。昔はこんなんじゃなかったんだよお。。と。

 

なぜ悲しいニュースばかり流れるのでしょう。

我が家にテレビがなくなって7年目。サスペンスとかも全く見なくなったからたまに旅館にとまって、サスペンスの予告見ると心臓ドキドキして怖くなります。

子どもに推理ドラマも自分が怖くて見せられません。。

表現するのすらためらってしまうけど、事件の現場のシーンで、どうしてそんなことがおこらなきゃならなかったのか、そちらも考えてしまう。

自分が幸せに生きたいのに誰かを傷つけてしまったら幸せからは離れて行くと思うから、それを軸にすると、そうしなくちゃならなかった犯人の気持ちも心が痛いなあっておもってしまってかなしくなってしまう。

 

ふと気づいたことは、こういうことって面白おかしく、楽しむことじゃないんだろうな、ってこと。

 

身の危険を感じこわいって思い感覚って動物だからきっとあるはずで、こういうとこから人の中に日々の不安がつのっていくのかもしれないな、ともかんじています。誰かこういう研究してる人いないのかな。

 

昨日は子どもたちの希望で札幌ジャズフェスタに行ってきました。

わたしは楽器が好きでいくつか持ってるけど、うちの子たちも思った以上に音楽大好きなことをこのところ感じるので、いろんなジャンルに音楽や楽器に触れる機会を増やしたいなって感じて帰ってきました。

 

夏本番の札幌、ステージに立った演奏者さんが気持ちよさそうでした。そのよこでうちの子たちもノリノリ、ジャズもお好きでしたかー。自分が好きなことを一緒に好きってうれしいなー。。