日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

畑の手伝い。

をするようになりました。

旦那さんが今家を建ててるのだけど、畑をやる人の手が足りないので、週末はほぼ畑に行っています。

 

でね、やることはひたすら間引きと雑草取り。そして芽かき。

ひたすらひたすら黙々とやり続けます。

狭い部屋にいると喧嘩が絶えない子供達もここでは思い切り走り回ってトラブルが少ないのでちょっと没頭できます。子どもたちも収穫を喜んで手伝ってくれることもあります。

 

この時間がすごく大事で。自分のこと、家族のこと、畑のことをぼんやり考えてる時間。こういう時間が瞑想だなあって最近感じています。座って目を瞑るだけじゃなくて、こうして無心でひたすら雑草とりながらちょっと考えたりする時間が自分のことを整理したり受け入れたりするのに重要なのだろうなってふと思ったのです。

 

今はそとにしごとにいくことがおおいじだいだから、こうして自分の中で考えて整理したりする、没頭したりする時間がないんだろうな。トトロにでてくるかんたのおうちのばあちゃんたちがみんなで田植えしてる時間、みんなでやってるように見えて、自分の持ち場に専念するああいうじかん、すごく大事だったんじゃないかなって考えてます。

 

今私たちが、喫茶店に行ったり、子持ちのお母さんが自分の時間が欲しい、一人になりたい、っていうのは、昔はこういうとこで体を動かし発散するということもあいまって、いくらかうめられてきたものだったんじゃないかって旦那さんと話してます。(まあ大家族のストレスもあったのだろうけど、鬼嫁ってことばがあるくらいに、お姑さんばかりが強かったわけでもないでしょうから。今も違うストレスがあるし、どっちもどっちなんでしょうね)便利になった分体を動かすことが減ったからまた頭で考えちゃう時間が長いし、うごくだけで自然に抜けて行ったものもぬけていかない。タイ生活から帰ってそれは感じています。家族の些細なことにイラっとしても、野菜を取りに行ったり、洗濯がずぶぬれさぎょうだからいつまでもそんなことに構ってられなくて動いてるうちにどうでも良くなってくるんです。はつがした芽や見つけた果物にワクワクしてすぐ忘れちゃうんです。そういうことが日常の中にすくない。

 

ついでにいうと、便利すぎるが上に、我が子のことをうるさくいう時間が多すぎる、苦笑。子どもに手をかけすぎて彼らの育ちの邪魔をする。それに彼らが好きに遊べる場所もないから、うーん、長男の時は邪魔しまくってきたな、私。。とおもう。今、その埋め合わせをせっせとしてます。

 

楽しみが日常の中にあって、買い物に行くように1時間で済ますとかではなく、じっくり時間をかけて行うことが多く、どこかに楽しませてもらいに行く必要がないから、子どもたちは遊びを探すのが上手。そばにいたければ、そこらで木登りしたり木のみを拾ってきて焚き火で焼いたりしてるし、好きな人が通ると嬉しそうに話しかけてついて行っちゃう、笑。それを思うとゲームやレジャーのように他者に楽しませてもらうことってほとんどなくて、それににてることといえば人とのコミュニケーションを楽しむくらいでした。まいにちこれでもかって遊んだのに、辺りが暗くなりかけて、寝袋に入ろうとした時に好きな人が通りかかると、おやすみを言うついでに遊んでもらって、幸せそうだなあ、、って思ってました。

 

何かに楽しませてもらうことは近代になって急速に発達したんだと思うけど、それによって自分で楽しみを見つける力が弱くなってる気がします。いつだか、旦那さんが行ってたことがありました。私はゲーム機をつかって勉強するシステムが好きじゃないんだけど、って話し合いしてたときに、大ちゃんはゲームより楽しいことを知ってるからそればっかりやることはないでしょ、って言う言葉にしっくりきてね。じっくり自分のペースで楽しめるじかん、環境を一緒にすごしてきてよかったなあってかんじました。そう思うと、子どもとの時間も自分の時間と思えるような過ごし方をして行くことで、子どもたちはますます大人になることを期待できるんだろうなあと感じるので子どもたちと過ごす時間を大変!だけで過ごしてはそれもとっても勿体無い気がします。物理的な大変さはあるけど、それってけっこうじぶんで勝手に自分にかしてるだけのことがおおくて、必要なものだけ選択していながら今の自分をどう受け入れて行くかという、自分の問題、なんでしょうね。

 

あと、自然は1番の先生、というのも納得しています。でも我が家の場合は子どもたち以上に私が自然に接する時間が少なかったから、もっともっと私が感じることがすごくだいじなのだろうなあとおもいます。一夏に一、二回のキャンプに行くより、しょっちゅううちの近所の森や山に行く方が子どもたちが日々楽しめるんだってこととか、私知らなかったもんな。最近は遠くに行ってもこゆにとって移動のストレスの方が大きいから、遠くには行かずにいつも近所の山とか、畑とかで遊んでます。子どもたちは蛇捕まえたらそれでいつまでも遊んでるし、くわのみとってかおもても真っ赤にして食べまくって、今度はジャムにするって箱に貯めてるし、彼らにはじっくり、な時間が一番豊かみたい。くわのみってとっても小さいから自分が満足するだけ食べて、またジャムにするとなると2時間くらいすぐすぎて行くから。。

 

あ、それました。春の水菜から始まり順々に収穫できるよう育てているお野菜。

そうして自分で野菜を育てる、ことを経験して思うこと。

私は自然栽培がいい、お肉も抗生物質なしがいい、なんていって遠くから買っていたけれど、頭で考えるのは理屈にすぎなかったのかもしれないなあって。

 

今の畑は持ち主さんの意向で化学肥料をいくらか使ってるとこもあるからあんまり食べたくないなあ、って思っていたけれどもね。持ち主さんがすごくてをかけて愛情かけて育ててるんです。

で、除草剤使いたくないから雑草取りもこまめにやって、自家用なのに、今時期は農家さんとおなじ、はたけしごとですぎてゆくひび。

 

そんな日々の間引きや雑草取りを手伝いながら、自然栽培でないことが、いい、悪い、じゃないんだなあって感じたのです。持ち主さんがすごく素敵なご夫婦でそんな方々この方法を取っているにはこの方たちが生きてきた時間だけの経験があって、日々にかけている手間を思うと、これもおいしくいただけるなってふと気持ちが変わってることに気がつきました。

 

ほかの人と暮らすって相手の気持ちに寄り添うことも必要だし、それが畑で草抜いてるうちにストンと落ちてきて。で、何よりも私は、自分で一年分の野菜を作ると言う作業をはじめてやって、本当にね、大変な作業で。これを我が家だけでやってたら帰省や日々の幼稚園もいけない。

 

自分たちが生きて行くには自分の学びの中だけで、いい、悪いって判断できないものだってふにおちざるをえないじょうきょうにぶちあたったのです。

もちろんね、やっぱり子孫の代まで自然を残して行きたいから、やっぱりしぜんなものをからだにとりいれたいとおもうから、少しずつ自然な環境で育てて行くことにじぶんでちょうせんしてみたいとおもうのです。

 

でも自分でできないことを、いい、わるい、できめてたなあ、ってかんじたんですね。今の私が無農薬、無肥料でやったら、豆くらいしか収穫できないから、自然農法の農家さんをお金で応援しつつ、分けてもらうと言う方法しか現実的にはなくて。今まではそれだったけど、わたしも自然を自分の手で残す一人になりたいので、自分の暮らしを変える一歩として、この現実を受け入れることの大切さをみにしみこませつつあります。

地球環境を残す、と言う意味では遠くから野菜を取り寄せて、輸送のエネルギーをかけることも不自然だし、そのお野菜を取り入れることは身体にとってはいいけれど、そのための多くの食費を、ストレスかけながら働くのはそこもまた問題になってくるし、暮らすという行為は一つに切って考えられないなあってこれを考え始めるとエンドレスであります。

 

だからね、来年から今年学んだ知識をフルに使って一畳ずつ、無肥料無化学肥料にしてけたらいいなあってかんがえてます。自分でやらずに、農薬やら肥料やらいいたくないなあと。私は今まで家庭菜園ですらできなかったから、そんな時代であることを思うと、自分が引き継がなかったら、我が子の時代には野菜をつくることすら難しくなる。そう行ったことも視野に入れていきたいなあと雑草を抜きながら考える、笑。

 

食べることは薬。そうなのだと思います。だから野草を食べる。ふきのとうもよもぎもみんな薬。タイ料理はたくさんのハーブや木の葉いつも使うけどそれもお薬。

 

いろんな文化が入ってきて日本人は素晴らしい舌を持ってるからたくさんの異文化料理をじぶんたちのくちにあうようにしてきたけど、ちょっと食べ過ぎなのかもしれません。美味しいから気持ちは満たされるけど、それに含まれた添加物や農薬の影響も重なって身体の中でパニックを起こして、アレルギーなどになるんじゃないかなって感じてます。

 

で、ついでに異国のハーブをたくさんとることがどこまで薬になるのかな、って感じたりもしています。楽しいですけれどもね、ハーブ。まあ、どちらにせよ、身近な薬草が1番の薬なのでしょうね。

 

そんなわけで、色々つぶやいちゃったけど、伝統食であること、食べ過ぎないことが一番家計にも無理ないし、身体も楽なんだろうなあと思って、我が家の食卓はいつもそんな感じです。

春先は野草がぽちぽち並んで、夏は夏野菜と野草。今はどんないいものを取るかより、水分ある野菜やおつゆなどもいただいて、食べすぎないようにしています。甘いものやオムライスとかは胃袋に構わず食べすぎちゃうから時々。

 

不思議なことに、そうしてスーパーにいかなくなっても、時々、入ってくるんですね。しかもおうちで育てた烏骨鶏の卵や、無農薬大豆の油揚げ、さっき釣ってきたばかりのお魚。

ますます、それで十分になったので今の暮らしはこんな感じ。子ども達は時々、オムライス食べたいとかいうけど、そんな話をしてしばらくすると、たいてい卵をいただくので、今度たまごちゃんがうちにきたときねーって感じです。

 

一昨日は丼からはみ出んばかり大きなおあげとこれまた実家から届いたお蕎麦で子どもたち希望のきつねそば。おいしいねえ、しあわだねえ。。ありがたいねえ。。。。それを家族四人ではなせることがしあわせだなあって思います。もうすでに、食卓も「足りてる」ね。いろいろ周りを見ると美味しそうに見えるけど、おいしそうはきりがないことを子どもたちとともに感じながら暮らせているってありがたいな。子どもたち、時には我慢してることもあると思うけど、今の暮らしが好きかを常々家族で意見交換しながらくらしています。

 

まとまりなくなったけど、そんなこんなな今日この頃。

作った服。

毎日切る子どもの服より。

生地はHARUさん、HINODEYAさん。

柄ものはチュニック。このちいささがかわいい。

薄いラベンダー色はチュニックのつもりがワンピになった。

最近こんな感じのりねんにあうかたちがすき。

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なのでうちにある生地を形にしてお嫁に出したいなー、となぜかズボンばかりせっせと作ってます。

お友達のお子さんに作ったらコットンなので着心地がいい、ってコメントもらいました。うれしいなあ。そこは譲れないこだわり、笑。

 

ちなみにtシャツは大ちゃん用。黄色が好きなのでチーズがらで。袖はドルマン。

もう一枚はこれからはドット、ストライプ、checkを組み込んだらどうだろうか、というお試し。結構気に入ってます。やっぱりまだ柄物も好き。

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