日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

日々いろいろあるけれど。。

呟き続ける日々。

 

近頃見えるようになってしまった。。

幽霊じゃなくて、昔の自分が。。

目の前にいる人が、あれっ??と思う動きをする。

時間を過ぎてのドタキャン、自分本位の行動。

ちょっぴり誠意がないなって感じる日々。

なんでこういうことが目の前で立て続けに起こるのだろう。。とかんがえつづけることひとつき。。

 

気づいてしまった。。。

昔の私だ。。

 

穴があったら入りたい、半端ないくらいの誠意のなさ。

なぜ、そうなってしまったのかを、整理し続けてます。

 

で、そうせざるを得なかったことに気づきました。

自分の家族関係がそうであったから。

自分のことだけで余裕のなかった母、幸せになったことがない、が口癖だった母と共にいた私は大人になることの恐怖と、母を守るためにいつも細心の気を配っていました。

 

今思うと、全ては母のため、だったのかもしれません。

母を幸せにしたかったのだと思います。

でも、私にはできなかった。母の問題は母にしか、解決できないものであるから。

共にいる家族から気づきをもらい、自分で変わって行くしかない。

母はそんな大きなチャンスを得ていることに気づかぬまま、歳を重ねて今に至ります。

 

私は幸せになったことがない。

何が彼女を縛ってるのか、私は彼女の過去を調べました。そして、母の苦しみの底に、彼女のお母さんとの問題があることを知りました。

 

母との関係はダイレクトに子どもの人生に響いてくるものだと母の姿からも感じています。

母は、生きているけれど結婚に反対して以来、今でも私と会うことを拒否しています。

お母さん、自分から幸せを遠ざけるのはそろそろおしまいにしたら?

そろそろ、そう声をかけてみようとおもっています。

 

で、自分のこと。

自分の誠意のなさは、自分に対する誠意のなさだったのだと痛感しています。

母を守るために、自分の優しさ、意識、行動全てを母によりそわせてきた子どもの頃。

自分とは何かと向き合うことなく母の不安に必死に寄り添ってきた。

 

結果、自分も大人になる頃には不安の塊となり、その場しのぎでそれを拭うための誠意のない行動を繰り返してた。

 

穴があったら入りたいくらいの恥ずかしさは、自分のせいじゃないのだと今、おもう。

けれども外から見ればそんなことはわからない。

私は私に見えているのだから。

 

自分と向き合い整理し続けたこの五年間、私は自分が旦那さんに出会う前が自分じゃないんじゃないだろうかってくらいの、感覚の違いを感じています。

 

今の私は、ここちいい。自分のすることは自分と家族を傷つけないかを意識して日々、生きてる。きっと自分と家族を傷つけない生き方は他人も傷つけない。経験不足により、たとえまちがえたとしても心からの気持ちを伝えればきっと大丈夫。

 

大人になって私は、愛を感じられる人間になりました。

今の私には愛する人がたくさんいて、タイにまで家族ができてしまったのはこの苦しみを経験させてくれた母との時間のおかげでもある、かもしれません。まあ、今でも苦しみにぶつかるけれども、笑。

 

そんな私は多分ちょっと変わった人。

ずっと、心のうちの、そういうことばっか考えてますから。

人様とあっても、親子さんみて彼らの関係の中にある豊かさってなにかなあ、と学びたくて心が自然にそんなことを察知してます。

 

だからね、親子関係に関しては特に意識して日々を積み重ねています。

とは行っても私はこんな風に自分を見つめる日々で、子どもたちは自分でぐんぐん育ってくれてます。

私が安心できる場所で暮らさせてもらってるから、こどもたちもそこであいをかんじてきてくれるのだとおもいます。

 

昔、函館にいた頃、自主保育をしようと思っていました。毎日海や森で過ごしてみようって。

けれどもね、子どもたちだけ自然の中にいても意味がなくて。

家庭にいる時間の長い子どもたちは親の影響を大きく受ける。

だから、親である私がどうあるか、を見つめて、日々自分と向き合って調整して、自然の中で感覚を養ってるこのこと過ごす時間を豊かにする努力をしなければ意味がないって気づいて、我が子から学ぶ、というかんがえにかわりました。子どもだけを学ばせるんじゃない。

 

森のようちえん、自然学校。いろんな学びの場があるけれど、子どもたちがそういうところに行く分、彼らの感覚は研ぎ澄まされて行くと思うのです。スタッフさんに任せておけばいいのではなく、自然から離れた暮らしをしてきた私たち、おやの世代は、研ぎ澄まされた感覚を身につけた彼らと暮らすために本気で彼らについていかないと、つりあわないんです。それどころか子どもたちの足を引っ張るようになってゆく。

 

自分の経験からそう感じています。ある一定の時間だけ子どもたちだけそういうとこで過ごす、そうじゃなくて、まずは親子関係ができるかぎり感覚を揃える生き方を常にして行く必要があるんだろうな。

 

そうしてね、今の私はありがたいことに気づいたら側に一緒に過ごす日々を楽しめる仲間がいて血縁を超えたつながりになって。

 

今の私の足りないところをフォローしてくれる友達家族がいて、大先輩がいて。

私が今、幸せなのはそんな愛を感じられるからなのだと思います。

自分と家族にためにしてきた日々の積み重ねがこんな風に愛を感じさせてくれてるつながりになってる奇跡とありがたさ。ほんとうの私のこの幸せはお返しできない大きな大きなことだといつも胸がいっぱいになります。

ささえてくれるみんなへ、ありがとう。

 

私の母はそれを知らないからずっと苦しんでいたんだろうな。

そこを越えるのに私は今でも苦しむ日もあるけれど、一つずつ丁寧に我が子との残り半分を切ったかもしれない共に暮らす時間を積み重ねていこうと改めて感じています。

 

そして昔の自分との向き合い方も整理し続けていかなきゃなあ。

 

とにもかくにも子どもたちが幸せに生きて行って欲しいから、自分らしく生きる必要がある、その意味がまた少し腑に落ちた気がします。