日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

札幌南区良いところ。

昨日は急遽、登山!!

 

それまでは自転車旅して公園行こう、って言っていたのにうちを出る直前に、大ちゃんが、ああ登山行きたいなあ、と言い始め。。。

 

急遽登山に変更。

車の運転ができない私ですが、うちから電車で一時間少しで海にも行けるし、そういえば徒歩で登山道までいける、笑笑。

 

そんなわけで急遽登山という選択肢が生まれて来たわけです。

滅多に行かない公園なのでこゆはこうえんにいきたがっていたのだけど山登りのために飴を持参。

飴につられて山登りに納得したこゆと登山道に向かう途中、冒険仲間のkくんにこえをかけることになり、kくんのお家へ。

 

ご飯食べてたkくん。即答で、一緒に行く!!

 

kくん母さま、突然なのにありがとう。

kくんにもこゆとおなじ年の弟がいて、kくんかあさまのはいりょのおかげで急遽kくんちにこゆをおいてゆくことに。

ありがたいことにこゆがずっとkくんのうちで遊びたがっていたので1日おせわになりました。

こんな、突然のことに対応してくれるお友達家族がありがたいなあって思います。しかも登山なのに、笑笑。

 

さて出発。登山道まで大人の足で30分。彼らの足で一時間半。

笹の芽を摘んで笛を作り、芝桜に見とれ、今年初のわらびを見つけ、収穫し。。

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お昼には山の頂上に着く予定が1時半まで延々に山登り、いえ、完璧にやまさんぽです。

私は山に詳しくないので彼らが山の姿を自分で感じるのをひたすらひたすら待ちます。

 

ニリンソウフデリンドウ

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松の葉の今年の新芽。新芽は本当に柔らかい。3人で指で確かめて感動します。

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途中の沢でザリガニ釣り。

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卵から帰る直前のサンショウウオ。 きらめく卵の中で泳ぐちいさないのちのうつくしさ。しぜんのうつくしさってことばで表現できなくて、自分で触れて感じるしかないものだと最近思います。心震えるってこういうことなのでしょうか。水面から出してごめんね。

 

 

ハルゼミ探しや、サルノコシカケをお土産にしたいと眺めるkくん。

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春から初夏に変わりかけた山は緑の色をいっそうこくしはじめています。

 

 

最後は無言で登り切る山道。

二時間、それ以上?やっと到着。

頂上から私たちの住む街を見下ろします。

集落のように家があります。札幌南区ここからみたら田舎の谷間の村。

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ここでも彼らは楽しみます。年下の妹、弟なしでこのメンツで初めて出かけたこの日。

大きな二人に合わせた旅は、彼らの今を楽しむ姿をまた違う形で感じさせてもらいました。

 

キアゲハを裸足で追いかける、kくん。ケーブルカーを眺める大ちゃん。時々こえをかけあってはどこかにふたりではしってきえてはもどってきて。

もちろん私は体力ギリギリなものでずーっと座りっぱなし笑笑。二人に世界が繰り広げられて行くけど、あの楽しげな雰囲気がたまらなく心地よくて眺めてました。

 

藻岩山の頂上で二人貸切のプラネタリウム。私は諸事情により入れなかったのだけどそれがよかったのだと思います。妄想の世界で遊べる妄想冒険家男子二人の心に中に刻まれた星空はこれからどんな風に輝いていくんだろうな。

楽しかった!!って嬉しそうに出て来た二人の笑顔を見て、私もうれしかった!!

それにね、妹がいたら入館するかわからなかったし私と二人じゃまた違う世界だったろうし、仲のいい仲間とこんな時間もいいものなんだね。これは母として寄り添わせてもらってる喜びなのかもしれません。試行錯誤の日々だけど、こうして二人の気持ちに寄り添えたここちよさがたまらなくうれしい。ああ、私のしあわせな時間だなっておもう。ありがとう。

 

最近思います。私はこどもたちとほんきでむきあいたいって思ってきたけどどういうことなのかなって。私にとってこどもたちとくらすじかんってどんな意味なのだろうって。

 

でね、思ったこと。子どもと過ごす時間も私の時間、私の人生の一部。

まだちいさい彼らに寄り添いたいって思った時点でそう心を切り替えて行く必要が私にはあって、そのために自分の行動を見つめ直して来たのだろうと今は感じています。

もちろん一人になる時間もたいせつなもの。

でもそれだけが私である、ってことじゃないってふっと腑に落ちた自分がいます。いつでもわたしであれる生き方をしようと思います。

子どもたちに生まれて来て欲しいって願った私は、子どもたちと過ごす時間が多くなるのは自然なことで、今しかないそんな時間をどんな風に受け止め、感じて、今の自分、の時間にしようか何年もかけて考えて来た、ってことがわかってスッキリ。

 

だから彼らとの喜びも悲しみも自分の人生の一部。

いつでも成長して行くためにいきてる。

 

そてそうは言いつつ、私の修行も続きます笑笑。

今日が終わってほしくない彼らに寄り添いながら山を降りる時間。

一本一本の木を観察し穴に手を入れ、次は石の裏に着いた土の観察。

通り過ぎた人が「いい、自然学習だねー」っていうくらい熱心な二人。「はい、わたしはなんも知らないので、彼らが自然と話し終えるのを待ってるしかないんです。」って笑いながら返事をしてね。

 

でも体力が限界に近くなって来たので、すいません、そろそろ私の体力が厳しいんですーってそうだんすると、目の前の大きな石を持って帰ると言い始める大ちゃん。

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あの、5キロはあると思いますが。。。

 

転がすこと10分。石が割れ、かけらを持って帰ることにした大ちゃんでしたがkくんがこの石、あんもないとがはいってる!!持って帰ろう!!

 

おう、まじですか!?やっぱり持って帰るんですか?

タイの山奥にいそうな山の男たち、笑笑。

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二人でのチームワーク、息合わせてるなあとそちらにも見とれおつきあいしてみることにしました。

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二人で運ぶことに疲れた二人、一人ずつ順番に運びつつ、下り坂に行くと蹴飛ばす役と、方向を正す役にわけ少し楽をしようといろんな方法を考える。

 

この石、3キロはあります。

でもどちらも相手を思ってるので、お前の方が持つ時間短いじゃんにならないんです。助けて、って言えるし、大丈夫?って言える。

 

私、こんな重労働を弱音を吐かず責めることもなく、ただただ前向きにこなす人たち初めて見ましたよ。本当にこの石が大切なんだと思い、(展示する場所も決めてました。kくんちの研究室に展示するそうで有名になるかもねーって夢を馳せてて可愛かった。)、やっぱりただただ待つこと一時間。

 

私、ふっと思ったことがあります。

子どもたちに大人が楽しむ姿を見せことの重要性、を我が師匠を言葉を変え何度も伝えてくれています。

それを日々考えています。

 

お祭りのように大きな楽しみもいい。

けれどもこうして日常を積み重ねて行くことの尊さを今日もまた感じています。

 

いつでも大人が楽しもうって思うと、大人ばかりが走ってしまう気がするんです。

楽しむのはげらげらわらうことだけではない、こうして子どもたちの傍らで寄り添い見守る中で彼らが喜びを見つけたことを共感する、そのことを楽しむこと。

自分がやってあげたいことやしたいことと彼らのやりたいことやして欲しいことが噛み合った時の嬉しさ。

私はそれを思うだけで、日々この人たちといることが楽しいって思えてしまうんですよね。

こうして待ってくれる大人がいることの安心感。そして自分の喜びをそばで見ていてくれる人がいるということも、ともに楽しむことになるのだろうと思うのです。

 

本気でこの人たちと楽しみたい、って思って日々を生きてます。だから安心感を持って日々を生きられるよう配慮した上での、楽しむ姿がとっても大事だと思います。

 

なんとなく私たちの滞在した村もそうだったように思います。

子どもたちを楽しませるこどもの日のイベントを本気で楽しんでるのは、子どもは宝だ、という感覚がみんなの根底にあり、子どもたちはいつでも見守られている日常がある。そして大人も、お互いに思い合う心を日頃から育てあってる、そんな中での彼らのイベントは、無理のない大人の楽しみ方と優しさが溢れたものだったんですね。自然の中で暮らしをする彼らが日々を本気で生きるのは必要があってのことで、実はそれってとても豊かな感覚なのかもしれない、ふとそう思います。たぶん、楽しさメインの学生さんの文化祭とはまた違う楽しみ方なのだろうと思います。

 

話を戻します。頂上を4時近くに出た私たち、石を担いで1キロ降ったあたりからひがかげりはじめました。日が陰ってくると、山の空気って一気に変わって行くんですね。

 

途中から背中もそわそわ怖くなって来て子どもたちに話したんです。私怖くなって来たんだけど、どうする??って。

そうしたら子供達も一人一人、そう感じていたようで、意を決して石を手放してその後は猛ダッシュで山を下り始めました。帰りは思ったより長く石を手放したことは正解だったね、と子どもたちが言ってくれるほど。

 

どうにか無事に登山道入り口につき、きっと神様が危険を知らせてくれたのだろうと山の神様に頭を下げて帰ってきました。

帰ってから大ちゃんと話しながらきっとあのそばにくまがいたんだろうとふたり(たぶんkくんもじゃなかろうか。)で口にしてます。見られてる気がしたよね、と大ちゃんのいう言葉に、私もあの時背中がぞわぞわしたのはそのせいじゃないかと自分たちの動物としての直感をかんじているのです。どうぶつとしての直感。。自然の中に私たち3人だけしかいなかったから蘇ったのかもしれないな。

毎年この時期、熊の目撃情報があるここらの山、気をつけながら出かけたけど山を知らない私とともに行って子供達が無事に降りてこれたことに感謝をしています。(ちなみにこの次の日、私たちの住む近くにクマが降りて来た情報が流れたそうです。人里に近づいていたのかな。)

 

山は確実に日が上の方にあるうちに降りてこなくちゃいけないと身をもって知りました。そして自分の直感を信じて動くことも。自然の脅威と優しさを管理された自然でない本当の自然界から学ぶ私たち。

これを知る必要があるんだと思います。

 

自分がだれかより劣ってるわけでも優れてるわけでもないということ。

人はただ助け合う必要のある動物であるということ。

自然にはいつだっておなじけいけんはないこと。

 

私たちの世代はすでに便利な暮らしをしてきてるから、おじいちゃんの話でも聞かない限り教育的自然学習で伝えられることはあまりないのかなって思います。

子どもたちの学びをそっと見守る、そしてこうして自分も怖くなって一緒に経験して帰ってくる。

 

お友達のお子さん連れて行ったから無事に帰れて何よりだけど、でもね、ほんきで楽しむ、本気でともにまなぶってこういうことなのかなって感じてます。

本人も学べたからいいんじゃない?って理解のあるkくんかあさまに感謝です。いつもありがとうね。