褒めるということ。
最近、大ちゃんがお料理に興味を持っていて、これがお世辞抜きで美味しいので、
「おいしーい!!センスあるね。おみせだせるわー。。」
と言いまくってる旦那さんと私。
お世辞でも褒めてるわけでもなく、心からすごいとおもう。
だからすごい、すごい、いってしまうわたしたち。
何が凄いかって、いくらかかるって計算も含んでいたり、段取りもその都度経験踏まえて変わっていってたり、たのしんでつくってるし、おいしいし、この時ばかりはじぶんがいちばーん!!、ではなくて、みんなの喜ぶ顔を見るのが先だったり。
持って生まれたであろうセンスや自分の興味に誠実なとことか、本当にね、いろんなとこがすごいなっておもうのです。褒める、っていう気持ちじゃなくて、対等に敬意をもってつたえたいというか。
(自分の言葉の表現力、乏しすぎます笑笑。)
私に簡単に真似できるかって言われたら今でも出来ないことがたくさんある。
だからわたしたちはすなおにすごいっておもってからだから溢れ出た言葉。
こんなことがあった次の日、褒める、ということについてかんがえるきかいがありました。
そして、そういえば我が家は「褒める」ってことをしなくなったなあときづきました。
褒めて伸ばさなくてもこうして自分で自分の成長をしていくし、すごいすごいっていつも言われてたら、私だって多分疲れちゃうかもしれない笑笑。
大人が子供に褒めるってなんとなく、下心を感じちゃう私はひねくれてるだけだろうか笑笑。
少なくとも私が受けて来た、褒めて伸ばす、教育法はそんな感じでした。そして自分もそうして来ました。でも、そうじゃない今、褒められるとそれなりの反応しないとならないし、いがいとたいへんかと。
寄り添ったり、いっしょにたのしんでるほうが、その子の興味の方へ進んでいく気がするのです。
「みてみてー」の、問いかけにも必ずしも「すごいねー。」とか、リアクションをおおきくする必要もなく、ともに今を楽しむだけでもいいことのたくさんあると、最近感じています。
大ちゃんは自分のことが好きだよ、と話してくれたことがあります。
なんで?と聞いたら「すごいから」と答えました。
だからと言って彼は自分ができることを人に自慢するわけではないし、他の人がこれすごいでしょ、といった時に、へーすごいねえ、って素直に思える感性も持っています。kくんは虫のことが博士ですごいんだよ、とか、こゆが〜できるようになってすごいねえ、とか私にシェアしてくれることのおおさからもかんじています。
このすごいという言葉の表現は、「一つずつ自分ができるようになって行く過程を、自分で認めているから生まれた言葉」なのだろうと私は感じています。そんな自分にワクワクしているというか、そんな日々の積み重ねを楽しんでいるというか。
昔の私は褒めたり、大げさなリアクションで子どもを持ち上げていました 苦笑。でもそんな自分をいつの間にか卒業し、いまはそうでないじぶんで子供達との日々を過ごしています。(時々癖が顔出すこともあるけど、でもその時は、あ、顔だしたって思えるくらいの自分の行為の不自然さを感じられるようになりました。それがまた自分で面白かったりもします。)
気づきが思いになり、いつのまにか行為が変わって行く。
自分の育ちの癖で、自分の思ってることと表現してることの矛盾で疲れていたけど、こうして、時間をかけて行為が変りはじまるんですねえ。。
共感してすごいねえっていうのは褒める、とは違うと思うし、これからも私は褒めない人でいつづけたいなあと改めて思った出来事。。
気づきは日々の暮らしの中に、日々の会話や出来事の中にたくさん転がってるんだなあ。。きっとこれからもっと気づいて行く日々を積み重ねるんだろうな。
それが私の我が子との、家族との暮らし。親育ちにも夫婦育ちにも多分終わりはないのだろうと思います。
肩の力を抜いて生きていきたいなー。(難しいけど笑笑)
娘4歳、野菜を切って炒めて。包丁の使い方から全て大ちゃん仕込みです。今日初めてほぼ一人で作り上げたおかず。彼女のできる量なので本当にすこーしをみんなで分け合っていただきました。美味しかったな。
お料理といえばエプロン。可愛いって思うのがいつも柄物、笑笑。柄物でお洋服の上下になってたりして慌てて型紙変えるのだけど、いつか落ち着くのかなあ。
とりあえずマルシェのご縁を願って作りだめしとこう。