日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

野草ごはん!

春です。

札幌にも暖かい春がやってきました。

 

タイから帰ってフィールドから掘り出した大根から始まりなんとかかんとか繋いできたお野菜も底をつき、買えばいいのだけど、買う気がしなくて最後まで粘り、実は今野草と共に暮らしています。

 

本当にね、買いに行けばいいのだけど、スーパーで買う気が起きなくて、かえない。。

ならば底を尽きることを堪能してみようかと思いつき、そうして次に出たアイデアは野草!

 

子どもたちと雨の前の日に2日分。

野草はそんなに多くは食べれないからガツガツ取る必要もなく、いつも余計に買って置いたりして、贅沢してたなあと気付かされます。

 

かうのは必要な分だけ、でも、意外に多く見積もってるものでうちにあるストックを日々積み重ねてるようなものだったらしい。

 

ふきのとうのくきと野良ばえあさつきのおつゆに、すぎなごはんとヨモギごはんのおむすび。蕗の葉の醤油漬けをまいて。つくしの茹でたのに手づくりのお醤油をかけて、と、若い蕗の味噌漬け。最近

腸内細菌のために甘いもの控えてるので久々によもぎむしぱん。甘みは純黒糖で。

うちにあったものは玄米ご飯とわずかな米粉と調味料。でもも味噌もお醤油も手作りだからそれだけで豊かなものだとおもってます。

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こうしてプレートにしただけで子どもたち大喜び。

 

でもね、野草は強いので、最近胃の弱い私はたくさんは食べれなくて本当に少しずついただいてるのだけど、そうてる間にご近所さんがハウスで取れたほうれん草を分けてくださったり、美味しい厚揚げを(それも無農薬大豆の!)分けてくださったり、おかずはいつも一品ですが、すごく豊かなことに気づかせていただいたのです。

 

子どもたち以上にあれ食べたい、これ食べたいって思ってるのは自分であることに気づき、本当はどれくらいのものが必要なのだろう、とか、どんなことを自分が当たり前に思ってやってきたのか、また一つずつせいりしています。

 

当たり前って実は何一つあたりまえじゃなくて。

それを私たちはほとんど全てを自給する村で共に暮らさせてもらったことで、感じる必要性をえて、当たり前に暮らしてきた、いま、ここ、さっぽろでも実践しています。

 

そこで暮らしたことが、実は自分がすごく豊かな中にいたこととかを理屈ではなく感じさせてくれています。そのことが、自然に湧いてくるから、すごく日々を暮らしやすくなった。

 

服を作ることもそうだけど、自分にはできない、ではなく、自分の暮らしに必要ならやってみればいい。これはわたしのくらしであって、誰の評価も関係ないことなのだから。

 

生活の変化を少しずつ記録してみようと思います。