日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

その29地域でのつながり

を、ここで、ふっと感じます。でね、地域っていいなあって。

 

この村は地域のつながりがぐるっと回ってるんです。

 

学校の先生も同じ地域で暮らしてる。畑も持っていて野菜の交換したり、授業の合間に帰ったり。これって、いろんな意味があって、先生が家族の関係も感じながら学校でのその子に接することができるし、その子のいいとこも、気になるところも把握することができる。

 

日本の先生は、日常を子どもたちやその家族に見られたくないっていう人が結構多いようだけど(自分が保育士してた頃、そうでした)、そうじゃなくて自然に暮らしてる。そう、自然に子供達と接してるんです。

 

暮らしの中に子どもたちの存在があるからか、この子はいい子、悪い子、ってレッテルを貼ってないんです。で、子どもたちの声をよく聞いてくれてる。自分の主張ばかりする大人じゃないとこがすごい、先生たち。

 

何度も授業に参加して、言葉は全部わからないけれど、雰囲気から感じています。特に1日の中で、昨日会ったことのシェアや、一つのことをどうやって行こうかって話し合いをする時間がたくさんあって、隣のことふざけたりするけど、授業を邪魔してる感じじゃない。そして先生も子どもの話を丁寧にに聞いているんです。うちの息子とのコミュニケーションからもとても感じています。

 

子どもたちの育ちが大人に見守られて、大きな子が小さな子を見てるということ。だから大人は見守る存在。大きい子が小さい子に教えたり、付き合ったりしてくれてます。もちろん全員ではなくて個性があるから、付き合うことはあまりしない子もいてそれもオッケー。でもみんな大きな子を見て、学んで行くんです。

 

おばあちゃんたちへの優しさや人への配慮、大きな子への憧れ。小学校の先生の出来上がってるセルフではなく、子ども同士の心の通い合った大きな子の素敵な姿を見て学ぶ小さな子たち。

 

そうそう、もう一つ思ったこと。
街に住んでると、うちのそばは車が多いから、子どもたちの遊ぶ場所を選んで連れて行く必要があるんです。そしてね、連れて行ったら付き合う必要が。。子どもたちの遊びよくはつきません。1時間、2時間、半日、気づけば1日。付き合わねばならないんです。

そうして自分の時間を失い、家事すらままならないまま、駆け足で家事と子どものお世話だけして1日が終わる。

 

そりゃ、都市のお母さんたちはどこでもいつでも怒ってるわけだ!!外に出てしゅっちゅう見かけます。発狂してるお母さん、泣き叫ぶ子供。人間的にそれは半端ないストレスで穏やかなお母さんなんて演じられません。お母さん、悪くない。世の中の暮らしが彼女たちを苦しめてるだけなのだと思います。

 

でもね、地域のつながりを感じて思うこと。都市と違うこと。

子どもたち、それぞれ勝手に村のあちこちで遊んでるんです。すごく小さな子はお母さんとだったりおばあちゃんとだったり。でも遊んでるうちに大きな子が来てみてくれるからあずけたり、暮らしと仕事が一緒だから店先で遊んでいたり、子どもとかぞくのためだけに1日の全ての時間を費やすわけではないんです。

 

その地域の中で特定されずに大人の見守る目がこどもたちにめをむけられてるんです。

地域の中に大人も子供も、人がたくさんいて、それぞれが優しさとのんきさを持ってるからそれが気持ちよく循環してる。

 

学校が閉鎖空間ではなく、子どもたちも学校にいる時間の動きを拘束されるわけではなく、彼らはいつでも学校の外に優しさを向け、行動することを許されてる。彼らは信じられているのでしょうね。そしてちいきでお互いに信じてるから学校も閉鎖しない。

 

息子が小学生になり、地域地域と聞くけれど、つながりがないような気がしてしっくり行かなかった不思議が今、理解できたように思います。

 

地域はつながりがないと機能していないようなものなのだろうと思います。どんな人が住んでるか知って、笑顔でコミュニケーションが取れるくらいの関わり方を日常からしている状態。優しさと呑気さ、っていうのは醤油の貸し借りできるくらいの、存在の近さ、気楽さ。あのおばあちゃんは助けが必要な人だなって位のことは知ってるくらいに近いと地域は機能するんでしょうね。

 

つながりがあれば、お互いに意識するから、助け合うことができる。やっぱりお互いの状況を少しはしってないと優しさも使えないよなあと。

 

学校や幼稚園でイベントがあるときだけ、地域地域ってよく使うけど、もうわたし達親世代が地域がどうあったらいいのか、を知らないのだろうと思います。その日だけ、地域の人に手を借りても日常的な子どもの見守りにはならないのだろうなあと感じています。もしすでにそうなっていたらははおやたちはもっと穏やかにいられるはずだから。人の目を気にして子どもを怒ってばかりいる必要はないはずで。

 

地域の人たちも子どもはみんなで見守る、育んでいく存在だと思えるはずで。子どもはうるさい、介護の必要な年配の人はきたない。そんな言葉も出てこないはずで。。

 

つながりがたってしまったからこうしたことを言うようになってしまったのでしょうね。

 

こうした中に外国の人もいれば常に英語や異文化も学べるはずで、人との関わりも深く暖かくなって行く気がします。

 

地域の存在が煩わしいから今のようになっていったんじゃないか、っていろんな人がいうのを聞いたことがあるし、自分もそう思っていたけれど、本当はどうなのでしょうね。そういう少数派の人が行動を始めるうちに、人のつながる力が薄れていったのかもしれないし。

 

なんとなく、一つだけおもうのは、きっと、もっと昔、どこかの時点までは、日本人はもう少し穏やかだったのだろうと。豊かな自然の中に住む私たちは、それらに見守られて、トトロのおばあちゃんちが田植えをしてるあの雰囲気のように、こんなにキリキリしてなかったのだろうなあって感じています。

 

だってね、ここにいてもう150人以上のいろんな国の人に出会うけど、多くの人がにほんにいってみたい、っていってくれるのです。日本の文化が、雰囲気が好きだから。

 

たしかに資源に頼らず、車や電気製品のような技術や、おいしい食べ物を作るあげるという繊細さ、自然の中に神様を見る八百万の神の心。

 

日本もとても素晴らしいと感じています。世界の多くの人がそう思ってくれるのは、人の暖かさもきっとあると思うのです。昔からずっとそういうものがあって今も日本を愛してくれる人がいる。

 

もっと自分の生き方を、日本の島で暮らす生き方を大切にしていきたいなあと、心から感じる三年目のジャングル暮らし。

 

日本は素敵な島ですよ。

 

川に向かう山道で。遠くからバイクの音が聞こえるまでこうしてたちどまっては遊んでます。日本ではすぐ抱っこというのは道中がつまらないからなんだなあって感じてます。

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30人近くの滞在者でご飯。これくらいなら一気に作れるようになりました。子どもたちがご飯にありつくのに時間がかかるので別で食事を、と思ったこともありましたが、子どもたちはみんなと食べるのが好き。みんなと過ごすその雰囲気が好きなそうです。そうしてご飯を食べ終わった後は誰かと遊ぶ。関わりっていいですね。

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