日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

その24(手作りおもちゃのこと、その2)

えっと。。こゆの車、完成した後も日々調整が入っています。

見た目は完璧。だけど村長さんのと全然違うんです。まずは動きがスムーズでないこと。壊れやすいこと。

 

鉈の使い方や物を作るスキルが全然違うことを痛感してます。当たり前だけどこれって当たり前ではなくて、こういう経験をしたからわかることだと気づかせてもらってます。

 

悔しさを超えて、もっともっと色々分解して作ってみようって今、思っています。そういうことから始まるのだろうなあと、想像できるようになっただけでも成長。

 

私の利き手は右手。物を支える左手は毎日傷だらけ。

刃物が当たったり、竹が当たったり、火を触ったり。

でもこういう経験が少なかったからなのだろうなあと感じています。

 

もっと小さなうちから生活道具に触れていること、大切なのだと痛感しています。

 

ナイフは危ない、火は危ない。そばにいて教えてからでないと、って思っていると伝えて彼らが使ってみる機会を失って行く気がしています。小さなうちから使えたら彼らの世界はぐっと広がるはず。そう感じる出来事が今日またあったので次回にお話ししますね。

 

もっとシンプルな生活を共にして、生活の仕方を伝えていくこと、その中で親とも地域の人ともコミュニケーションが広がって行くと感じています。

 

「昔取った杵づか」

「習うより慣れろ」

「親の背中を見て子は育つ」

「経験に勝るものはなし」

「働かざるもの食うべからず」

「成るように成るさ」

 

いろんな場面を経験して、昔からの日本の言葉をふと思い出し、初めて腑に落ちることがたくさんあります。昔に似た暮らしをしたからこそ、初めて心から理解できたことがたくさん。

 

でも学校でも習う、この昔からの言葉が全て通じているものではないものだとも感じています。暮らし方が変わりすぎて、私たちの経験では解釈が異なってしまうことも生じているということを。

 

もちろん、私なりの解釈なので私の軸が違っていることもあるけれど、もう一度、それぞれの中で考えてみる必要があるなあと感じているのです。

 

暮らし方が違うから頭でそうしたいと思ってもしないほうがいいこともあったり、そうした昔ながらの教えについても、今の時代の生活ではできないことも多くて、そうしたいなら、自分の生活の何を変えていく必要があるのかを考えていく必要性を感じています。

 

私の今の暮らしもそんな感じで。左手の傷は今まで経験してこなかったことの証。火を扱うことの難しさ、刃物を使うことの難しさ、自分で作り上げることの難しさ。

 

そうして自分はどういきていきたいのかを考える日々がここにあります。

そんな日々。

 

先日急に宅配便が届きました。昨日までいたマレーシアのセインくん。帰る直前に子供達とサハイナンツアーして楽しかったみたいで、子どもたちにありがとうって気持ちをたくさん詰めてわざわざ送ってくれたんです。びっくりしたなあ。

人の優しさに触れられるここの暮らしが好きです。そしてそんな優しい人々が集まるのはここの村長さんが本当に愛ある人だから。

コミュニケーションは言葉じゃない。こうして愛を持ち合うことだとつくづく感じます。

 

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