日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

その14 こどもたちのこと。

子どもたちのこと、あんまりかいてなかったですね。子どもたちの日々は同じ場所で過ごしているけど毎日楽しそうにしてます。いつでもアウトドアのなかにいるので、遊ぶことにはことかかないようで、木登りしながらおやつ食べたり、水遊びで流れた水でスライダーしたり。

 

自然の中は遊びの宝庫で、車の止めた場所により洗車ついでにスライダーになったり、稲わらを集めて来た場所がトランポリンになったり、干上がった池が魚つかみ場になったり、子どもたちの発想が次から次へと湧き上がって来ていることを実感してます。

 

火起こししてバナナ焼いて、ふと思い立って、うちのそばの盛り土を、こゆと大ちゃんそれぞれで畑にしたり。大人たちの生活スペースの中にいるので、料理をすることも、畑を作ることも、水道管のパイプで遊んだり、竹をナタで切ったりすることも、すべてかれらのあそびにつながってゆくので、面白いなあと思います。大人の真似もたくさんします。だからね、もちろんおもちゃなんて必要なくて。決まった遊びよりもどこまでも果てしなく遊びが湧いてくる、自然の中に日常があるってこういうことなのだと実感しています。

 

今を否定する必要もないけれど、昔の環境っていいなあってつくづく思ってしまうここでの暮らし。自然が遊び相手になってくれることも、習い事だらけになってしまうこともないから、うちを出れば誰か彼かが外で遊んでいることも、いい環境だなあって思いませんか?そうして子どもたちが遊んでることも当たり前だからなんとなくみんなが気にしていて、困っていても困ってなくても声をかけてくれて。

 

こゆとだいちゃんもここではそんな暮らし。村までは少し離れているので、年の下の友達と遊んだり、いろんな大人たちと関わったり。

 

村の子どもたちのいい顔は、こうした中で生まれたのだろうなあと感じています。いつも人の中で思い切り自分を出して生きていて。楽しむのが上手。少し空いた時間で何もなくても池で魚釣りしたりしているし、授業中も気楽にやっているので、おしゃべりやいたずらもしゅっちゅう。

 

この緊張感のなさは時間の流れのゆっくりさと、自分を楽しめるとこから生まれたものなのかなあと想像しています。

 

子どもたちの時間を見守れるような母でありたいと思うとともに自分を見直すわたしでした。

 

何度洗濯しても泥んこになる子どもたち、シャワーあびたのに、あしたのピクニックに向けてうちの前で洗車がはじめった。洗車で十分に濡れたのに、今度は流れ出た水のスライダーで泥んこに戻り、今日も楽しそうな人たちでした。おやつは傷み始めたバナナを使いたくて米粉を混ぜてパンケーキ。全部手で潰して混ぜて焼きます。火加減に手を抜きまくりでいつもうまくいかないけど子どもたちは大好き。いつでも外にいるからなんとなく人と過ごして1日がすぎる、村の人たちの日々もそうなのかなっておもいます。そんな日々。

 

今日はみんなのリクエストで大ちゃんのサツマイモ炒め。ハーブをたくさん使ったお料理好きの彼のおかずは逸品です。コユもお手伝い。ありがとう。

 

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