日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

その9 ただいま畑を作っています。

我が家では石鹸を使いません。体は布でこするだけで十分ですし、髪を洗うときも水ときどきオイリーだなって思った時のみナチュラルなものを使うときもありますが、ほとんどつかってません。(こうしてみて気づいたのは、油物やお肉を食べたときにオイリーになるということでした。面白い。。)

 

冷蔵庫もないのでお肉を食べる機会もほとんどなく、2年近くそんな暮らしになったので、最近はお肉を食べたいなーということからも離れつつあり。。。ここのうちにそばに豚飼いさんがいて、ゲージの周りで育って食べられてゆく様を見てると気の毒で、なんとなく、食べれなくなって来てしまって。。野菜もそうなんだと思うけど、哺乳類で感情や恐怖心もあるかもしれないのに、食べられるために生きてゆくってなんか悲しくて。

 

なのでお皿も布たわしでこするだけ。ストーブの上に置いて温めてお湯でさっとこすって水でさっと流す。さっと流すだけなので給湯器のスイッチを入れるほどの水の量は使いません。でもたまにお肉にした時は、お湯を使って洗ってます。北海道の水は冷たいのでそうしないと落ちないんです。その時のお湯の使用量はかなりのものです。

 

洗濯物も塩水。北海道のアパートは外干しシステムがないとこも多く、ここもそうなので夏場、室内干しで少し男性ものだけ匂いのつきやすいことが幾らかの期間あったけど、松の力っていうナチュラル石鹸をつかって過ごし、あとは真水や塩水。匂いや雑菌は多分水でも大丈夫なのだと思います。お日様に当てて干せば全く問題ないと思います。けれども色はついてくると思うので我が家は大人ものはめっきり色の濃いもの。子どもたちの日常は汚れるくらい遊んでくれた方がはっさんできていいですから。

 

こういう暮らしになったのは、環境に優しく、っていうとこからではありません。ここでのキッチンの排水をそのままガーデンに流しているから。今植えているのも、モーニングローリー、という湖のそばに生える草。水がしょっちゅう流れるとこにあると水やりもいらないんです。そしてね、こうして自分たちの口に入るものをどうしたいかっていうのが、ダイレクトに問われるんです。

ものを燃やすときもそう。ケミカルな衣服の燃やした匂いや溶け方、いつまでももえきらずにグツグツし続ける石油。その後の処理の重いこと。ゴミ処理場でないとこれ以上の処理はできません。だから燃やす意味はなし。。。コットンなら灰が風に飛ばされ細かくなり土にまみれ分解されてゆくのでそのままでオッケー。

 

原発の処理も永遠に時間がかかるそうですが、石油製品も似たような感覚じゃないかなって気がしています。せっかく食べ物を育てられる大地に、消えないゴミを置き続ける不自然さ。私は母なので次に世代に申し訳ないなって思うのです。

 

ここで作ったガーデンは収穫を終えるとまた山の草が生えて来ます。もちろん人の手が入った土がすぐには元に戻らないけれど、機械を入れるのとは全く違う再生力なのです。こうして自分たちが必要な分だけ頂くこと。

 

そしてこの村で学ぶ自然への想いはとってもおきなものでした。それは次回に。

 

鍬で耕し、コンポストを入れ、種を蒔き、わらを敷く。一人で畳二畳分ほどで1週間。この作業をするのに相当時間がかかります。それが人力。でも自分の力で作った食べ物をいただくと、ちゃんと体を動かすので必要な量しか食べません。食べ過ぎると動けないし、少ないとお腹が空くから。人力での暮らしは理にかなってる、のかもしれません。

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