日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

一人は一人のために。

久々の更新。札幌は紅葉が進んで朝晩はすっかり寒いです。でもこの時期がまた綺麗なんだよなあ。

 

チクチクブームなのでちょっと公開。トモエのお祭り用にレッグウオーマー作ってみました。

 

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あまりに楽しいので違う布でも作ってみます。 

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 寝ても覚めてもチクチクチクチク。やらせてくれる子どもたちに感謝です。ラッピングは端切れで。

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そしてもうひとつ。最近の我がフィールドでのお楽しみ。火起こし。

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足るを知る。ということはどういうことかに気づいてしまってから、買い物に行くことや出かけることがまたグッと減りました。あるもので、暮らす。

 

もちろん、可愛い雑貨を買っても、好きなお料理をしても、ディズニーランドに行ってもいいんです。でもね、一番大切なことは日々を楽しむこと。楽しみ続ける暮らしが日常にあること。そして自分の次の世代の人間も同じように暮らせること。

 

そう考えた時に、ふとひっかかることがありました。自分の次の世代の人が同じように暮らしていけるのだろうか、と。エネルギーを使い続ける暮らしには限界があります。ものを増やしたぶん、ゴミになります。美食をしつづけたぶん、子どもたちはまた美味しいものを食べるために、歯を食いしばって仕事をする必要になるのかもしれません。

 

今は足るを知らない暮らしをしているのかもしれない。だからなるべくあるもので暮らす。なるべく、でいいとおもうのです。こうしてなるべく、とおもう人が一人、また一人って増えてくれたら、消費が減ると思うから。もう少し、世の中のスピードが遅くなるかもしれないから。

 

自分のペースで、毎日、毎日、暮らせたらきっとうつ病が減るんじゃないかなって気がします。

 

もっと自分に優しく生きてもいいんじゃないかな、っておもうのです。常識は、本当にその通りにする必要があるのだろうか、って最近疑問に思います。

 

だってね、日本の外に出るとその常識がなくても、人々が優しい気持ちを使いあいながら生きている姿を目の当たりにしたから。私たち家族が、お互いの暮らしをそっと見守り、そっと感じ、毎日穏やかに暮らしている人のなかで暮らした村はそんな場所でした。

 

「一人はみんなのために、みんなは一人のために。」

その言葉を浴びながら育ってきた私。自分は二の次にしてみんなのために尽くすこと。それは当たり前でした。だから自分が自分のために立ち止まったり、優しくしたりすることなんてしてこなかった。そうして生きてきた時間が、我が子が生まれてくれた時に、苦しみに変わりました。突発的な喜びはあげられるのに、その喜びを作るために疲弊して疲れて怒ってしまう。じゃあ、自分はどうしたらいい??

 

そう考えた時に思ったのです。私自身が、いつもある喜びが何かわからなくなってることに。子どもといることが24時間、負担でない人は少ないと思います。子どもたちはいつでも、私だけをみて、とアピールするから。そうした時に自然と心でぶつかってしまうのです。

 

腹を痛めた我が子にはできるだけ、満足して生きて欲しい。そう願うのがお母さんだとおもうんです。けれど、それができないから、苦しむ。たぶんね、子どもが生まれてきてくれて、夫婦関係が変わるのはこの違いだとおもうのです。これはなかなか、お父さんには理解し難いことなのだろうと感じています。家族を思うからこそ、仕事をしてくれるお父さんに、伝えて共有してもらえたら、夫婦関係が温かいものになるけれど、子どもと長い時間過ごす経験を自らしてくれる方にしか、なかなか伝わらないであろう部分。

 

なぜお母さんはキーキーしがちなのか、の答えはそこなんじゃないかと思います。子どもを産ませてもらって初めて知る苦しみ。この苦しみそのものが自分でわからないから、怒ってしまうのだろうと感じています。

 

そのお母さんの幼少期が満たされたものであったらきっとおこらなかったことだと思います。高度経済成長期、鍵っ子だったり、お父さんが不在がちでお母さんだけに育ててもらった人の苦しみ、な気がします。あ、でも血のつながらない人にでもいい、深く愛してもらっていたらその症状は軽かったかもしれません。

 

「自分は自分のために、みんなも自分のために」こうして幼少期を生きた人は、優しいです。自分にも、人にも。きっと世界に対して優しいのでしょう。誰かの苦しみに気づける感を持っています。「人のために」というよりも早く、感が働き、身体を動かしてくれるのです。

 

大ちゃんやコユもそんな人です。もちろん、その日によりいろいろありますが、その時々に動いてくれるのです。もちろんいざという時にはいつだって文句も言わずやってくれる。すごいなあと思います。

 

人は一人では生きて行けません。他の人力が必要です。本当にね、暮らすことには人力のエネルギーが必要なのです。

 

人間は完璧じゃない。けれど完璧でなくても心の通いあう関係があれば笑顔で生きていけると思うのです。

 

自分が満たされていれば、優しくあれる、と私は感じています。

「自分は自分のために」

これに満たされた時、人との関わりが欲しくなる気がします。そしてそう思った時に優しく関わろうと思うと思います。

 

私が 足るを知る という言葉を頭でしか分かっていなかったように、言葉は、相手の経験が自分の経験とリンクしてその人の腑のなかに落ちた時、自然と行動に変わってゆくのだと思います。行動に変わった時に初めて 理解できた 、ということができるような気がします。

 

「一人はみんなのために。みんなは一人のために。」

この言葉を思いついた人はそう行動できたのかもしれません。あくまでその人の言葉だったのだろうと思います。本当はどんな意味を持っているのか、今の私にはわかりません。屁理屈ではなく、本当に、素直に、わかる方に、聞きたいなって思います。

 

言葉で伝わることって少ないのかもしれません。

だからこそ丁寧に旦那さんと、わがこと、周りの人と、自然と、物と、接してゆく必要があるのかなとおもいます。

 

そうして、この自分の常識で行動することは、今、目の前にいる人にとって優しいのかを問うていく必要があるのではないかと感じています。

 

とまあ、深いとこまで考えてしまいましたが、火を見ていると心が落ち着きます。この日は娘ちゃんと、次の日はお友達の子と、いつまでもやっていました。火をつけもやすことは人間のエゴかもしれないけど、火は自然の一部な気がするわたし、こうして自然はいつも私たちを助けてくれているのですね。