日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

学ぶということ。

昨日ともえで「埴 しゃぼう」さんという植物写真家さんが出てるドキュメンタリーを見ました。「足元の小宇宙」という映像。

 

埴さんが、雑草にタネを飛ばす瞬間を写真に収める様子がとられていて、埴さんのことばひとつひとつに、心がワクワクしました。

 

買ってきた椎茸が、ほうしを飛ばすところ、つくしのほうしが踊るように動くところ。。なぜ地球上のここに存在しているのかわからない雑草たちを見て、私たち人間もそうだなあってかんじて。ただただ埴さんの、ワクワクしながら雑草とともに時間を過ごしてるところに、吸い込まれて見ていました。

 

そうしてふとね、学びってこれかもしれないって思ったんです。知りたいっておもいました。

 

埴さんがどんなことにワクワクするのか。

どんなことを見つけるとこの写真を撮りたいとおもうのか。

あの雑草はどうやって生きてるのか。

埴さんにとって今一番大きな不思議はなんなのか。

どうやってこれで食べてきたのか。

大変だったことはなんなのか。

それでも埴さんがこれが好きで仕方ない理由はなんなのか。

埴さんにとって雑草ってどんな存在なのか。

などなど。。。。。

 

埴さんの言葉で聞いてみたい。昨年、亡くなってしまったからもう叶わない願いですが、そう思うと学びたいって思った時って、まったなしかもしれません。我が子や旦那さんがそうなった時、すぐそこへ向かえるように家族として支えていけたらいいなって深いところで今、感じています。もちろん自分自身も。

 

こうして学び始めたら、生きることに繋がって行く気がします。そうしてその人の生き方を知ることが、私の中で、1つのヒントになってくれる気がします。なにより、わくわくたのしいから、だれを蹴落とすこともない、人の幸せを妬むこともない、人の邪魔をしてる時間なんてない。

 

学びは強制するものではないのかもしれないってなんとなく思っていたけれど、多分そうなのだと思います。教育の始まりは、まず、職人の親方に惚れて、弟子入りすることだったそうです。技を盗む、という言葉もここから生まれたようです。

 

自分のために学ぶ、自分がそうしたいから学ぶ。自分が生きたいように生きる為に、学ぶ。

 

こうして考えると、私はすでにたくさんの素敵な人に出会ってます。そしてね、子どもたちの育つ過程に、自然をそばに置いてくれたともえ幼稚園の園長。人は自然を忘れてはならないと思います。生きる土台全ては自然が作ってくれたもの。私たちが生まれてきたことも、そう。

 

学ぶとは、生きること。幸せに生きる為に学ぶ。生きていて学びのない日は1日たりともない。

 

そっか、そっか、そうだったんだあー、と気づいてすごく嬉しい朝でした。

 

埴さん、ともえの園長、ありがとうー。