日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

人が育つということ。

最近読んだ本。

本当は怖い小学校1年生。汐見稔幸

学校を捨ててみよう。三池輝久

神様とのおしゃべり。さとうみつろう

人が育つ町 。木村仁

 

どれも面白かったけど、一番はともえの園長が冊子にしてくれた「人が育つ町」。

 

これね、教育者を育てる学校の教科書にしてもらいたい。大事なことはココだとおもう。いか、私の解釈が入ってますが。

 

子どもは親、教師、だけが育てるものではない。そもそも子どもは不完全な存在という捉え方が間違っていて、彼らから、生きることを学ぶべきなのは大人もそうで、小さな瞳の生きる力はすばらしいもの。自分を受け入れ、虐待する親すら受け入れるという、深い愛を持ってる。

 

大人は、子に、教えるのではなく、生き方を見せて行く。上に立つ大きな存在ではなく、共に生きる対等の存在であり、背中を見せる、というのは、自分に誠実に生きる姿を見せて行く、そのことにすぎないのではないだろうか、と。

 

私がタイから帰り感じていること。

 

現代は家が密閉され、それぞれの暮らしが、保証されているように思っていたけど、これにより、他を受け入れるゆるさや、自分の弱点をさらけ出すことで生まれる気楽さを失ってる気がします。もちろんね、メリットもある。だからこうなった。けれど私は、子育てという意味でデメリットをつよくかんじてしまいました。

 

母子の依存関係というのは厳しいもので、まともに密閉空間で生きていたら、我が子がどんな人間か、理解する気持ちを失ってしまうと感じています。自分と同じように動いてくれないと、ストレス溜まっておかしくなっちゃいます、きっと。地域で関わり合うことが、母にとっても、子にとっても必要。人はきっと、いくつになってもそだっていくひつようがあるんじゃないかって思います。だから、ひととしていきるために、コミュニティが必要なのだとおもうのです。

 

お互いが、穏やかに生きるための、優しさを持った関係でいられるコミュニティ。そうして満たされて育った人で作られた村というのは本当に穏やかで豊かです。生きることを尊重しあってます。

 

人同士が認め合って日々を生きること。それぞれができることをして補い合って生きること。それで回って行くのかもしれない、試してみたいなって私が今、なんとなく感じています。自分ができること以上のことをしなければ怒る必要もないですしね。時に怒ったって小さなことですしね。

 

本当は怖い小学校1年生、も学校を捨ててみよう、も、子どもたちが大人のスピードの中に組み込まれることで、脳も心も疲れてしまうということが書いてありました。私の子供時代がまさしく、それ、でした。自分はどんな人で、どう自分を表現して行ったら、自分が無理なく、人にも優しい気持ちで関わって行けるのか、試行錯誤してくることができなかったんです。だからね、大人になっても、というか、大人になった時、ようやっと、自分の足で歩くことを許されたから、今でも試行錯誤中。子供の頃は大人の満足のために試行錯誤してきたから、未来へ向かう我が子にためにもしたいことのためにとりかかるのが、もっと先になってしまってるんです。

 

疲れた脳はそれを癒すためにいろんなことをこうどうにかえます。この本を読んで、いじめ、ヤジ、偉そうにいう上司、の構造が少しわかった気がしました。そうせざるを得ないんです。でも、そうした結果、自分が置いてきぼりになるのにね。どんどんマイナスの塊になるのにね。

 

それぞれが自分の人生を一生懸命生きてるんですよね。学校だってシステムだから、先生が悪いわけじゃない。そしてそうせざるを得ないように私がしてる部分もあるのかもしれません。誰が悪いわけじゃない、そうなってしまっただけ。

 

でもね、私も含めてもっと自分に優しく生きれるようになったらいいのにな。毎日仕事をするのがご飯を食べるように楽しくなったらいいのにな。ふとそう思った朝。