日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

石鹸のこと。

     昨日までトモエの家族キャンプ。それが終わって台所に排水溝を掃除した。悪臭とともにヘドロ状になって汚れが出てきて思わずそばにあったクレンザーをかけて磨き始めた。そしてふっと思う。

 

    この水が裏に沢に流れていく。どきっとした。

 

    わたしは掃除をしているつもりで、かえって汚しているのではないかと。

 

    タイで感じたこと。田舎の村よりも、バンコクの路地の方が排水による悪臭がするんです。わたしと旦那さんとで出した答えは、都会はコンクリートで覆われているから微生物がへりもはや分解能力が減っているにではないかということ。きっと田舎は土に帰り、そこで分解されているのだろう。洗剤を使わない暮らしは、きっとすべての生き物に優しい。昔は日本でも糞尿を畑にまいていたくらいだから、それを分解する微生物は神様くらいの力を持っているのだろうと思う。

 

    そうして、糞尿をけなさない人々の心は、自分の身体のことを受け入れることのできる生き方をしていたのだろうと想像しています。自分の中で否定するものが出てきたからうつ病のような病気が生まれたのかもしれないな。心と身体と頭の矛盾。自分が自分でなくなってしまったかのような現象のように感じています。

 

    なのでわたしがクレンザーを使って洗ったことで、沢の微生物の分解能力を落としてしまったのだと感じたのです。それは掃除をしているつもりでも汚していることになる。そして人間ばかりが偉いのだっていうエゴでもあると。。微生物を思う暮らしをしようと思います。いえ、洗濯に洗剤を使わない暮らしはもう始めているので、もう始めていますね。

 

    自然の力にはかないません。野生の直感をもつ動物たちにも叶いません。もちろん虫たちにも。

 

    先日畳の裏からありが上がってきていたことがありました。古い家なので仕方ないけれど、正直嬉しくはないので時々外に投げたり掃除したりしています。けれど殺虫剤を使いたいとは思わなくなっている自分がいました。対等に生きている同士として武器は使わない。台所まで行列は嫌なので、潰しても仕方ない。けれどそれをするなら自分の手でしたらいい。なので時々セロテープでとりました。子どもたちにも寝室でピクニックしないように伝えました。けれどそれだけ。

 

    でも私たちが慣れてゆきました。戦うこともなくなり、しばらくうちの中で食料を運ぶありとすれ違いましたが、2週間たち、いまはあまりいなくなりました。飽きたのかなー、めぼしい餌が少ないと思ったのかなー。きっとうちの掃除をしてくれてたんですね、畳の下のクズは減ったのかもしれません。

 

    フィールドに蜂がきました。スズメバチだろうと思って気をつけてはいましたが、増えてきたので車内に撤収。その後、トモエで似たようなことがあり、スズメバチだーって逃げていたらスタッフさんが、ウシアブというアブだよって教えてくれました。帰ってからスズメバチとウシアブの違いを調べました。そして万が一のために、ポイズンリムーバーも旦那さんと1つずつ、手元に置いて置くことにしました。こうして知識を増やすことで自然と戦わずに自分の身体を守る術を考えるようになりました。

 

   蚊取り線香も気づけばあまり使っていません。使わなければそれなりに暮らせる体になってゆくものですね。

 

    そうして自然と共にあることを自分がしたいと思うようになって、なんとなく受け入れられるようになったこと、が増えてきたなって実感がありました。どうしようもならないものはどうしようもない。ならばうけいれたらいい。それを自然は教えてれている気がします。その方が柔軟で心も楽ですから。自然は神様。昔の人がそういった意味がなんとなくわかるような気がする今日この頃です。