日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

1人の子どもが育つには、1つの村の支えがいる。

   今日は昨日の続きから。昨日子どもたちと呼んだかぎばあさんシリーズより。

 

   続いてかぎばあさんシリーズ。これ、こんな面白かったんですね。すっかり忘れていました。そして、時代を反映した背景に引き込まれました。いや、感じさせてもらいました。かぎばあさんって、両親が共働きで鍵っ子となった子どもたちを助けてくれるおばあさんだから かぎばあさん なんですね。

最後の作者、手島悠介さんのあとがきに、今の私の気持ちが重なりました。ので、少し短めにまとめて、抜粋させていただこうと思います。


"さて、久しぶりに3人の泥棒の登場です。そのボスは生意気にも「1人の子どもが育つには、1つの村の支えがいる」と言いましたが、これはアフリカの素晴らしいことわざです。

「1人の子どもは親の力だけで育つものではない。村の人たちの協力と愛情にくるまれて、育っていくものだ。そして子どもは村の財産なのだ。」

というような意味合いですが、先進国では、核家族化がどんどん進んで、大人にとっても、みんなの共同体としての生活の場というものが、なくなってきています。

ですから、立場の弱い子どもたちは、「みんなに愛され、教えられ、育てられていく村の子 地域の子」ではなくなって、全てを両親に頼るしかありません。鍵っ子にもそうでない子にも、広がりのない、孤独な世の中になってきたと言えるでしょう。"


この本は1994年に発行されています。私たちはこの時代に子どもをしてきました。そうして今、我が子を産ませてもらっています。そんな私が感じていることを正直にここに書いてみようと思います。

   我が子を愛せない苦しみを抱えている母親が今、たくさんいます。私もそんな人の1人でした。それとともに、両親に本音を言えない小さな子どももたくさんいます。

   小さな子はきっと、働きに出ずにお母さんかお父さんにそばにいてほしい気がするんです。でも正直なところ、それができない親も多いのではないかと思うのです。それはきっと、子どもとどう関わっていいかわからないから。子どもに寄り添うことができないから、自分が働いていた方が自分らしくいられる気がするって思い込んでる方もいる気がするんです。でも、お母さんからもらった愛は、かけがえのないものだと思います。小さな期間だけでもいい、寄り添ってもらうことが、彼らが心を病まずに生きていく土台になる気がするのです。そう、この小さな時間は、これから何十年も生きてゆくための土台づくりの時間なのです。もちろん、お母さんがいない子だっています。働かざるを得ないお家だってあると思います。そんな子は、お父さんだって、地域の人だってきっといい。助けてあげてほしい。心からの愛を感じること。仕事が休日のわずかな時間だけではなく、時間をかけてじっくりと。(私も仕事をしていたら、それはできないとおもいます。休日は家事もしたいし、自分の好きなこともしたい。そうしたら子どもに怒りながら接してしまうと思うのです。それはきっと自分にとっても子どもにとっても苦しい時間になるとおもうから。一番正直に接してしまうのが身近な家族。自分がイライラしているときは、その感情のまま、子どもに、パートナーにぶつかってしまう、そうして最終的に自分を責めることになると思うのです。)

   それでなくてもお母さんは身体を休める時間があまりありません。おっぱいして、起きてる時間の半分は家事で終わり、半分は小さな子どもとの時間。頑張っても自分の時間は2時間くらい。それも毎日は取れません。子どものエネルギーは大人にはついていくのが大変で、ヘトヘトになっちゃうから。そしてそんなに一緒にいても、自分の子どもを100パーセント知ることは難しいのです。一緒に暮らしてるから、相手を知ることって大切だし、知る事で寄り添い方が変わってくる。

   子どもに寄り添うって大きな仕事だと思うのです。そしてね、地域で育ててもらっていたら、お母さん、平和でいられるんです。自分が信頼できる人に、一緒に見てもらっていたら、我が子がより、愛しく可愛く感じられてくるのです。

 

   いつも口からわざと水を吐き出して遊んでいる時期が大ちゃんにありました。片付けが大変、ってイライラしていました。けれど誰か一緒に見てくれる人がいたら、その人に安心して抱かれる関係だったら、密着関係によるイライラがなかっただろうと思います。このままでいたら困ると、かってに不安になって口うるさく怒ることもなかったろうなあと。一緒に見てくれてる人が抱っこしてくれている余裕な時間で拭けばいいだけ。年配の経験のある方ならそんな小さな人を見て笑うでしょう、この時期だけのことですもの、一緒に笑っていればいいだけ。小さな人はどんなことも自分で経験したらきっと、卒業を迎えていくとおもうのです。小さいから、いろんな経験しても困るレベルは低いと思うのです。小さい人が誰かをどついても、相手が大怪我をするようなことはほとんどないだろうと思うし、たくさん経験できるよう見守っていけたらよいのだろうと感じています。それを見守れるのは、家族、村。保育園でやってもらっては、保育士さんの心臓がいくつあっても足らないし、本当に大けがにつながることが多々おこると思うのでそれができづらいのは痛いほど良くわかります。だから仕方がない。

 

   実際、大人からさほど離れない子どもとの遊びの中で、滅多に病院にいくことなんてなかったです。目が届けば配慮もできるし声かけもできます。子どもは集団になると、まだ周りの危険を察知できていないので、そこから事故が起きてしまうだけで、一人で草履で坂を駆け下りても転ばないし、3歳だって二階からの手すり滑りやら、ローラーブレードもやっちゃうくらいの身のこなし。すごいです、本当に。休みなくやりたいことが出てくるので、それをこなすだけの支えをいただいてるトモエ幼稚園の子どもたちの未来、輝いてるわけだよなあと改めて思います。

 

   そしてね、そうして大人が自分の気持ちをたくさん受け入れてくれることを知ったら、伝わる力も大きくなっていくきがします。今の我が家の母子関係がそう。コユが意地はってるときに、ときどき大ちゃんが助け舟だしてくれてます。

 

   このまま大きくなってしまい、困るかもしれない。それが不安になって怒ってしまうこと、私もたくさんありましたが、これは無駄怒りで自分にもよくないですよー。あとで自分を責めますから。そうしてまた気分が下がって怒る、の繰り返し。この「村で子どもを支える。」というのは、子どもも人を信頼することと愛を学べるけど、お母さんにとっても安心と愛を学ばせてくれたり、きづかせてくれたり。


   そんな中で育った子どもたち。私たちがタイの村で出会った子どもたちがそうでした。目の輝きが違うって言うけれど、本当に違っていました。大人になっても目が輝いている人がたくさんいます。トモエでも感じてはいましたが、確認できて嬉しかったな。

 

   サハイナンで仲良しだったピュアさん。ふざけすぎるし、賑やかすぎる大ちゃんに、いつも穏やかに大切に接してくれたのは何故だろうって思って、彼に聞いて見ました。あなたは母に怒られたことないの?と。そうしたら 「そのことを心配したことはないよ。」といつもの笑顔で答えてくれました。きっと村の支えがあり、穏やかな母子関係があったのでしょう。彼は10年前、大好きだったけど、自分のやり方に合わない仕事について悩んでいたそうです。そうしてそれをやめて自分が本当にやりたいことを探してここにたどり着き、今の幸せを感じているそうです。「あなたにとって、幸せってなあに?」ってナイスな質問をしてくれた我が友に、「今だよ!」と、答える30歳男子。ここ、タイの田舎の人は、大人も素直なんです。子どもみたい。

 

   村が支えた宝であり、希望である命は、きっとうまれたときのまま、輝いてそこにいました。生まれた時はどうだったのかわかりませんが、でも、きっと自分で表現できるようになった今、生まれた時より輝いているのかもしれません。村の財産として存在する人の命を、村の大人は、集団としては見ないでしょう。きっと 個 として受け入れる。愛する。その関係が何よりもかけがえのない、豊かさなのではないかと今の私は感じています。そしてそれがそのまま優しさになる。私もきっとそんな存在だった。今、家族が小さな村だとしたら、そう。昔感じられなかった愛をここでいただき、私は人を愛せるようになりました。今の私の優しさを持てるようになりました。優しさを使った時に、相手が喜んでくれたら嬉しい。

 

   優しさは使えば使うほど優しくなれる、ってそう言うことかな、園長?優しさを積み重ねて、歳を重ねていきたいです。これが私がトモエの園長と村から、伝えてもらったこと。小さな人にも大きな人にも、私らしく共に過ごす時間を持つなかで、優しさをこれからも使っていきたいなと思っています。

 

   コユが時々洗い物をしてくれます。そして自分で片付けてくれたそうです。彼女の興味と優しさが伝わってきて、ありがたいなと思います。どれくらい汚れが落ちてるのかわからないけれど、油を使ってないのでまあ、いっか。彼女の満足気な顔と、優しさが嬉しい私たち。お互いの思いが噛み合った瞬間。それを感じられるのが私たちにとって豊かな時間でもあります。この心の余裕、キープできる人でありたいな。ありがとう。家族の思いも気持ちよく循環する。これもパーマカルチャーだと思います。

  Today,my daughter washed dish.I'm not sure this is clean.But I don't use oil.So It's ok! She is happy,we are also happy.And this is her kindness.I think so. Thank you for your kindness!I told her.

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そしてもう1つ。大ちゃんは時々買い物に行くとあれ食べたいから自分で買う!と言いながら買い物をします。本日はレトルトのお味噌汁が飲んでみたくて購入。あとは先日食べて美味しかったユリ根。こちらはモリモリ食べるので我が家的に予算が合わず、今日は買わないよ、というと自分でお買い上げ。でも自分で買うと特別なものになるようで、自分で大事に抱えてお料理も自分で考えて楽しんでいるんですよね。買ってあげたいなって思ったけど こんな彼の経験も貴重な物ですね。こうして気づきを頂いて日々を重ねて行くわたし。買ってあげないことがかわいそうな訳ではないってわかって、見守ることができてよかったなあとかんじています。

 

Sometimes, My sun bought favorite food by his money. I want to buy these for him.But I can't as such anytime.

 Today,he bought organic instant miso soup and vegetable.When he buy this,he think how to cook by himself.And he treasure this.So this experience is good experience as him. I could follow him with my eyes.This was good.I think so.

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