日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

お母さんだけど、バタバタしたくないから。

   「バタバタしちゃってなかなか出来なくて、ごめんなさい。」

 

   何度私はこの言葉を使ったでしょう。でもバタバタ、ってなんだろう、って旦那さんと話してました、半年前。だってお腹すいてご飯食べてるでしょう?お風呂だって入ってるでしょう?バタバタ準備しながら家族でお出かけだってしているでしょう?

 

  うーん、なんだろう。。。・・・ 私の場合、 多分たいしてやりたいことじゃなかったんだと思います。なのに人の目を気にして、やらなきゃいけないと思い込んでいただけ。初めからわかっているなら、できないことはごめんなさいと断るしかない。やり始めて無理だったらそう伝えるしかない。一番は、自分が本当にやりたいことなのか、できることなのかを、理解しておくこと。自分を知っておけば、やりたいことはできる。バタバタはしない。。だから小さな人との時間をバタバタしたくないんです。

 

   そんな私、今日もフィールドで 遊びました。うちから40分くらいかかるフィールドまでの距離。サハイナン行くまでは雪の中で歩くのが遠いように感じていましたが、サハイナンに行ってからは身体をうごかさない方がムズムズ。。

 

    「なーんだ、フィールドまで歩けるじゃん。」って歩いて行くこともへっちゃらになりました。そうしているときは、イライラしなくて済む。身体を動かした日の方が身体中の風通しもいいのです。そうする方が、心も心地いいことを知っているから、できること。しかも私は健康のための散歩ってできないことを知ったので。だから続かないんです。子どもたちを遊ばせたるどー、、とか畑を作るどーって目的があったりするから出来るんです。一石二鳥くらい理由が欲しい私。

 

   暮らしのために動く。少しでも忘れずにいたい昔の暮らし。

 

    45分ほどで到着。大ちゃんが誘いたいって行っていたお友達と途中で合流。いけると思っていた道が、手前までしか除雪していなくて一瞬たじろぎましたが、自分の背丈以上もある雪の山をよじ登ってる子どもたちをみて、よっしゃ、行ってみるかと登ってみたら、足もさほど埋もれず進めた!!この雪が溶けたらここは1メートル近く高さが減る。それがなんだが面白くて踏みしめながら歩きます。子どもたちの日々、サイコーだねえ!!!!!わおーって思わずさけんでみる。

 

    そうしてついたフィールドで遊びます。朝から出かけ、2時間の予定が子どもたちがあまりに楽しんでるものだから、もう少しもう少し、と気づいたら3時過ぎ。そりすべりのゲレンデ作って、白樺の樹液のんで、除雪で出来た高い雪の壁をひたすら歩いて。天然のロングスライダーを見つけて大はしゃぎして。私も声かけられて一緒に滑ります。「足あげて滑ってごらん、スピード出るから、」とか、「スコップで滑ってごらん」って、いうから、「割れちゃうよ〜、私が乗ったら、」なんて行ったら「大丈夫さー。」って、私が知らない世界を教えてくれる子どもたち。本当にスピードでるし、スコップも割れないし、本当に面白い。

 

    けど、ずっと動く体力もないから、途中で 寝転がって空を見たり、本を読んだり。遊びたい子どもたちに付き合って来たのが本音だけど、その中で自分のやりたいことも意外と出来るものです。出来ることの中で、何かをやって行く。それも今の私の課題。だってね、たくさん遊んで、遊びきったこどもが大人になったら、きっと、生きる喜びを日々表現できるようになるんじゃないか、今は兄弟喧嘩も絶えないけど、 満足した分優しさが積み重なっていくんじゃないかって想像しているから。私もそうして年老いて行けるかもしれない。

 

    これは私のパーマカルチャー研究所所員としての、研究課題。我が子で、研究させてもらってます。そう思うと結構面白くて、無理せず楽しく私も日々を積み重ねています。こどもたちの笑顔、目の輝き、遊ぶ集中力、ほんとうにすごいって、近頃魅せられてる私。お金をかけてのレジャーもストレス発散もいらないのではないかって、世界、こんな側で見つけました。

 

   そしてお昼は薪ストーブで焼きおむすびとお味噌汁。思った以上に火の入るスピードは速くて私はてんてこ舞いだけど、もはやご飯もおやつも関係ない楽しさ。おやつ食べたーいって言われても同じものが出て来ます笑笑。楽しければ、おやつもご飯も関係ないんですね、きっと!!今度このストーブの上を簡易釜にして、ピザ作れないだろうか。。と考え中。

 

    朝はお汁とご飯、およびご飯のお供に納豆か、うめぼしかのり醤油。昼はお汁とご飯とおかず一品、夜もお汁とご飯とお昼と同じおかず。だからお汁とご飯はまとめて炊いておかずも朝のうちに作る。そうしたら、思いっきり時間ができるんです。子どもたちが台所に立ちたいって行ったら、今は朝からでも手伝ってもらえます。コユがそう。朝から人参の皮むいたり、突然やりたがることもしばしば。そして、夕飯は疲れた身体で働かなくていい。だからイライラしません。

 

   おやつはご飯多めに炊いておいて、ナッツ入れてスパイスソルト作ったり くるみ味噌にしてちょっと遊び心入れておむすびにすればいい。我が家は、おやつも好き、でもナッツも好き。ならば、ナッツふりかけでいいじゃーん、ってなりました。好きな食べ物はキリがないから、いろいろ揃えておく必要もないですしね。もち米ストックしておいて、炊いてすり鉢で子どもたちに潰してもらって即席もちにもします。ご飯で満たされていたら無駄食べもしないし 結構いいかも って感じてます。

 

   好きな食べ物っていいけど、食べすぎちゃう気がするんです。。パン屋さんのパン、グラタン、パスタ。。。私の場合、それが毎日でした。お料理み好きだから、チキン南蛮、コロッケ、今日は、アレンジしたパスタだよーなんて研究に余念がなく、本当に美味しいものだからいつも腹八分目にはならないんです。なので私は好きなことを変えることにしました笑。お料理の研究はやめたんです。そうしたら新しい発見がありました。

 

   我が家は農家さんから直接お野菜もお米も送っていただいています。初めは農薬漬けのお野菜が嫌で。でもシンプルに重ねにして、お塩だけでいただいてみたら、本当に美味しいんですよね。ケチャップ、マヨネーズ、ソースで味をつけることがもったいなくなって来て。そりゃ、甘みのあるソースかけたら美味しくなるでしょう。でも、確かに 本来の味 に気づけないんです。ソースで食べてるから。豊かな風土の日本の恵みはそのものにいろんな、味覚を感じることができるということをしりました。だからもったいない、って腑に落ちて今に至っています。

 

   本当に美味しいのです。ぜひスーパーでなく、せめて産直のお野菜をお塩だけで、蒸して食べてみてください。せめて1週間、毎日。子どもたちは蒸し野菜にするともちろんまずはそのまま食べます。でも次第に、自分でアレンジして、塩チリ、とか、ハーブソルトとか素材の味に浮気をしつつ、楽しみます。それが結構面白い。何より自分が楽になります。私が怒ってるより、ご飯に手間がかかってない方がいいよね?って聞くと旦那さんも子どもたちも、うん!!!!!!といつも即答するので、毎日大好きなものをたべる!!ってこともてばなしてみました。ご飯もお味噌も好きだから大好きなものではなく、好きなものにしただけ。おやつには大好きなナッツを入れたり、カリカリに焼いやおむすびにしたり、楽しい要素を入れるのが私流。

 

   だから遊び倒した昨日もかえってから、お風呂はいって、お友達がくれたかぼちゃ持ちを食卓テーブルで焼きながら朝炊いたご飯とお汁をいただいて布団でゴロゴロ。。ついでに旦那さんと大ちゃんは自分のお皿を洗ってくれるからそれもありがたい。手が冷えきる前に洗い物終えて、お腹も満たされて機嫌良くなって勝手に遊んでくれる子どもたちを眺めながら、手抜き母ちゃんしてます。でもこれが最高。我が子を可愛いと思える心の余裕が、ね^_^

 

   やっぱり思うのは、ものが豊かに便利になっても、心は楽になってなかったなって。結局旦那さんは平日忙しくて、休日にいてくれてもたまの一人の時間を持つことに申し訳なさがあってできなかった。そして便利な分くらしで、時間が短縮されても、母子での密室の暮らしってものは、心が癒えないんですよね。そこのところが問題なのかもしれません。そしてそんな母ちゃんに気を使う子どもたちも気の毒でした。子どもはいつでも母のことを気にしてくれています。

 

   それなのに、寒くて子どものトイレが近い日、トイレに付き合うのにイライラしませんか?子どもは悪くないのに怒り出していませんか??どっちが大人でどっちが子どもなんでしょう。大人も子どももない、私たちはともに暮らしている人間どうし。穏やかに入られるかいられないかは、多分、体力とその体力を奪ってしまう心の習慣なのだと思います。

 

    洗濯機が各家庭にあるより、コインランドリーを使うにが主流で、小さな子を抱えた母子は毎日そこに行かなくちゃならない、くらいの方がいいのかもしれません。大きなコインランドリーで、洗濯している間は子ども同士で走り回り、母ちゃんたちはおしゃべり。子どもたちの声を聞きたくておばあちゃんたちがそこに顔を出したり、時々学校を休んだ大きな子がたちよってくれたり。子どもは幼稚園と保育所、おばあちゃんたちは家でテレビか、老人ホーム。

 

   そうして年齢で暮らし方を分けると、人がどう育つかわからなくて、子どもがうまれたときに、困るのだと思います。子どもの声がうるさくなってしまったり(そう言われる側よりも、もしかしたら言う方が辛いのかもしれません。この年の人はそう言うもんだからねえ、とうけながすことができず、常にピリピリしてることが。原因は自分の心の持ち方にある、気がするのですが。)、寝たきりのおばあちゃんの介護で逆母子密室。。。このうちにこういう人がいることを知っていたら近所の人が、介護する側のひととうちの中で、延々とおしゃべりするために遊びに来てくれるかもしれません。そうした人との繋がりが、これからの寝たきりの人を今から防いでくれるかもしれません。お年寄りから引き継ぐ大切なものをいただけるかもしれません。人が年をとるということ、今のこの日本では、残念だけど、生きて来た経験を敬うのではなく、家族が年老いるということを面倒臭がるという気持ちが大きい気がしてもったいないなあと思います。

 

   人間とは何か、どんな風に生きるのか、自分と自分の大切な人がどんな風に生きようとしているのか、今大切でなくても助けてもらって繋がることがある人かもしれません。人間を知ること、受け入れること、時には受け流すこと。今ふと思いついて描き始めたコインランドリー構想の想いがふくらんでしまいましたが、こんなふうに、人との関係の中で生きて行けてたらもっと生きるのが楽になる気がしています。人って人とつながることで、その時に相手を尊重し、信頼関係を作れる力を自分が持っていることで、生きやすくなって行くのかもしれません。

 

    白樺の樹液、出ました!!

This is sap of white birch!

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   まだわずかだけど、飲んでみます。「冷たい!ほんのり甘い!今年もありがとう。少し、私たちにも分けてください。」

   樹液は、これから暖かくなって葉をしげらすため、水を吸い上げるための糖分を含んで白樺の中に雪解け水を溜め込んだもの。白樺の命の一部。尊い命の水を分けていただいています。自然は私たちにもどこまでも優しい。(そうして暖かくなったらヤマダニも登場します。もちろん自然は厳しさも伝えているなあとおもいます。だから考えます。この厳しさは何を伝えているのだろうと。思い切り甘えさせてもらっているから 、分け合う。生きるすべてのものと。私が気づけること、今はたったこれだけ。もっと学ぼうと思います。)

 

   I drunk this. This is cold by snow and a little sweet. Thank you tree.I ask them give us.

 

 Sap is water that snow melt. Tree drink thaw water.Because  after warm climate,they need to grow up leafs. Sap taste is sweet. Because this need for sucking up thaw water.This sweet is xylitol.

  We get life of tree. Thank you so much. I tell them.

 

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