日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

自分がいたい場所に身を置いた時間の中で。(タイ暮らし75日目)

   さてさて去年は1月に帰国していましたが今年はもう2月。ここサハイナンにはカシューナッツの木があります。2月から実がなりはじめるので村長さんに教わってカシューナッツをたべることにしました。

 

   まずカシューフルーツからナッツをとって天日干し。この形、お腹の中の胎児の最初の形に似てるなあと思いました。なんだかとっても愛しい形です。

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     そしてこれをすみの中に投入します。なぜかというと、からの部分に毒があるからその毒を飛ばさないといけません。唇につくと火傷してただれたようになってしまって非常に危険だそうなのです。英語がこれ以上理解できないので自分で調べてみることにしました。そうしてわかったことは。。カシューナッツってウルシ科なんですって。だからかぶれるってことなんですね。しかも強いんですね。そして中の実には青梅で有名なアミグダリンなどの食中毒の素があって、ダブルパンチを受けたらただれと強い下痢と腹痛になってしまうということなんですね。炭に入れるとジュージューいって中から液体が出てきます。これをだしきって火も通さねばなりません。何度か炭にし、研究の結果ようやく成功。

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  真っ黒。

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   そして石ころで割ります。

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   でてきたカシューナッツの実。中身も胎児。愛しい一粒。

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   この作業に要する時間、1時間くらい。これでようやく1人三粒ほどのナッツを口にできます。今回はみんなにおすそ分けしたので20粒は剥いたでしょうか。しっかり火を通したものの次の日に手の皮がわずかに向けてガサガサになってました。痛くもなんともないのでたべることには成功しましたが、こんなに手間がかかるんですね。おやつをいただくまでに子どもたちとこの作業、わずかな量を大切にいただきました。そしてやっぱり値段とこの手間との差を考えてしまいます。

 

   こちらは川で拾ったアーモンド。こちらもハンマーで砕いて中の身を干してからいります。

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   そしてふと思います。原始人食にはナッツとお肉とお野菜だそうですが、ナッツを拾い、食べれるようにして、お肉を猟して、畑を人力で耕していた時代と今を釣り合わせることができるのかな、とか、ベジタリアンの人が、お肉を食べないけれど、油やお砂糖をたくさんとっていたりとか、ヨガをしてファスティングをした後は絶対にこれを食べなきゃいけないってこだわっていたりして旅をするのにたくさんの調理道具をもちあるいていたりとか。。。私もこれが正しいなんて言えるものはないけれど、健康食を頭で考えるときりがないのかもしれないなと感じる今日この頃。それだけでストレスになってるのかなと、情報の溢れている今を感じた気がします。

 

   ただ私自身が経験をして感じたのは、3畳の畑を耕すのにこれだけ身体を使っていたことがあったということ。移動をするのにこれだけ時間と体力を使っていたということ。自分で家を建てメンテナンスができていたということ。大人も子どももお年寄りも同じ空間ですごしていたということ。そしてそこには自然があったということ。食べれないと人は生きられない、その食べ物は自然からしか頂けないものであるということ。。そしてもう1つ。コミュニティのわずらわしさから核家族化をしていったのかもしれないと仮設を立てていますが、どちらにもメリットデメリットがあって、自分が経験した限りでは、コミュニティの中でずっと育っていき方を身につけているのなら、人の思いに勝るものはないのかもしれないとみんなで育ち合う場がもっとあったらいいなと思います。

 

   そしてこんな生活をしてもう1つ、きづいたこと。自分の感情の怒りにぶつかった時、何が正しいか問うても答えはなく、それによって自分が苦しむだけのように思います。ここにいていろんな人と出会って、子どもたちはどんな人も受け入れたり受け流したりしているのに時折気になる人が出る私。以前の私と考えを変えられるように少しだけなってきて、何が正しいか問うのではなく、なぜ自分がきになるのかを問うてみたら自分の答えがそこにあったんですね。それは相手の問題ではなく自分の問題。相手の問題は相手が自分でむきあうこと。私の問題はなぜ相手のそこがきになるのかということ。そうして時には考え、時には考えるのをやめてみる。考えなくても行き着く場所はあるということに最近気づきました。その先にあるものがあるから。私のその先にあるものは、どうしたら穏やかに今を生きられるか、それを知りたいのだということ。

 

    マイペースを受け入れてくれる自然は、私を頭でなく、心で、足の裏で、匂いで、体感温度で癒してくれています。3ヶ月という間ここにいたということ、その事実が私の中に今、存在しています。

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   ゆっくり畑を耕すように、カシューナッツを加工するように、ゆっくりじっくり穏やかに自分と生きていきたい、家族と、他の人たちと生きて行きたい。そうカシューナッツの赤ちゃんのようなタネを見ながらここで過ごした日々を感じ直しています。

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