日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

暮らすことで1日が終わる。(タイ暮らし54日目)

   6時に起きて、ご飯を作る。パパイヤとバナナでフルーツサラダと菜の花スープとご飯。今日は少し豪華に筍のピクルスの炒め物つき。みんなでいただきます。そうして片付けてうちに帰って子どもたちの歯磨きを済ませ、おちばをはく。はいたものはたき火で燃やす。子どもたちがマキを作ったりタバコごっこをしたりして側で遊んでる。旦那さんは洗濯の後、建築へ。そしてガーデンに水をあげる。ホースが固くて蛇口にはまらないのと、少し遠くてホースが届かないので、大ちゃんの協力を得てたらいで往復。パパイヤと、スイカとかぼちゃと、シソとセサミとロングビーンの芽が出てきて可愛い。土が乾きやすいのでどうしたらいいかなあと日々研究中。その時点で10時半。旦那さんの建築現場に遊びに行きたいけど、昨日と今日は村長さんも自分のうちに増築をしているので協力したくて1人でキッチンで動く体制に入るのでそのままガーデンで野菜を摘む。ついてきたコユがそばのうちであそぶ。

 

   そして12時、ランチ。かぼちゃの皮と生もやしのサラダ、大人用はチリ入り。ご飯とかぼちゃとココナッツミルクのスープ。蒸し野菜。シエスタして2時。1人ずつシャワー浴びて、建築に少し顔だしてもう夕飯を作る時間。お豆を煮て野菜を炒めて、筍のスープ。そして即席チリソース。それをみんなで食べて6時。暗くなり始めてうちに帰って歯磨きして布団へ。そうして終わる1日。暗くなったら火のそばでおしゃべりする以外何もできなくなります。

 

   暮らしているだけで1日がすぎてゆきます。あといくらか、やりたいことはあるけれど、そこまでは届かず終わって行く一日。でもそれはいつかできる。突然時間が得られて。昨日がそんな日でした。だからそれで十分。(日々の仕事をする中に子どもたちがいる。)

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   この2年くらい、毎日を丁寧に暮らしたいと思ってきたけれど、1つ思ったことがありました。山での暮らし方を感じた最近。落ち葉はあるのが当たり前だと思ってきたけれど、村長さんも近所のタイの方のうちもうちの周りはきれいにはかれていて土が見えています。気持ちがいいのとたき火での火が移って火事にならないようにという知恵。言葉で言わない村長さんの行動からそれを理解し、きれいにし始めたら村長さんが嬉しそうに、「気持ちがいいでしょ、meditation のようでしょ。」とはなしてくれました。meditation 、本当に祈りと瞑想のようだと心の深くで感じます。暮らしている場所を心を込めてきれいにすること、そうしているとこの暮らしを見守ってくれる森に感謝の気持ちでいっぱいになります。そうして少しの間没頭して掃除して、少しだけ火を眺めて。小さな芽を出し始めたタネに喜びを感じてもっと大きくなあれと祈って。ご飯をたべる家族とみんなの笑顔を見て嬉しくなって。1日2食を目指す私。フルーツサラダが食べたいのと、あまり食べていないのに夜中に胸やけがすることも多く、消化系が強くないことを感じて夜を抜いたら、寝るときに楽だったので夜を抜くようになりました。そして体を温めるためにレモングラスと生姜のお茶を飲んでみんなと共に過ごします。美味しいよ、ありがとう 。そう言ってくれる何人かの言葉が嬉しく、言葉がなくとも食事を囲んでみんなが楽しそうな笑顔を見せてくれること、きっと旅の中でみんなで囲んだ食事は忘れないだろうなあと思いながら、それぞれの幸せを願います。おしゃべりで賑わっていても、お茶を飲みながらみんなの様子を一度は眺めるその時間は、不思議なことに、私にとって心静かな時間になります。ああ、暮らすことって 祈りと瞑想かもしれない、そう感じます。虫も人も植物も、みんなで暮らしているということ、支えてくれる森。

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   それを感じて気づきます。丁寧に暮らしたいと思ってきたけど、それは私の言葉ではないんだなと。私は、私並みに、日々を感じながら祈りながら、ゆっくりと、生きるために暮らしていきたいのだなと。血の繋がった家族とともに。時には地球の大きな家族とともに。暮らしの中でわずかに没頭する時間もきっと祈りの穏やかな時間。今日も気持ち良く過ごせるように。そう思ったら暮らすことがもっと楽しみになります。森の中にいると同じことなんて1つもなく、子どもたちと同じように感動がたくさんの日々。昨日は大きな蜂の集団が蜂の巣を作り始めてびっくり。どうしよーと怖がる私たちに、静かにしていれば大丈夫、私たちにはちみつも必要だから、と穏やかにいう村長さんにもびっくりします。風船くらいにたくさんの蜂が身を寄せ合って木にぶら下がっているそばを息を潜めて通り過ぎる私たち。音を出すとやはり番兵蜂が羽を震わせ出すのです。こうして自然を学ぶ日々。自然の中で私は知らないことだらけだと感じます。だから暇になることも一度もなくて。何もしなくても、ふと下を見た瞬間に見つけたアリを目で追いかけるだけでそこから目が離れないこともしばしば。せっかく子どもたちが離れているから何かしなくちゃもったいない、と自分で欲をふやすこともなくなりました。本当に暮らしているだけで私は十分だということを感じています。

 

   そして自然に私はとうていかなわないのだということも。そう改めて感じて、自然に近い小さな子どもたちにも私はかなわないな、ということも感じます。この森でなぜ?なぜ?と疑問をなげかける大ちゃんとコユ。私にはっきりと答えられることはほとんどないのだと知り、経験と知識の伴わなかった生き方を振り返ります。人間の作ったものには答えてきたけれど、今思うとそれすらも知識として知っているだけで経験としてはほとんど知らない。壊れた電化製品を私に直せないから。そう感じ、自分がどんな人間かまた1つ気づきます。そしてどうしていきたいかも考えます。その中で自然の中の生き物たちが、ここで暮らした仲間たちが様々な生き方を見せてくれ、感じさせてくれます。

 

   そんなものに囲まれていること、それが私の幸せなのだと、私は幸せだったのだと感じます。そしてそれが最近祈りに変わりました。幸せなんてなったことないから知らない、それが口癖だった母の幸せを毎日、祈ること。イライラしている人を見ると引いてしまう自分でしたが、その裏の事情を想像しつつ、その人が穏やかであるよう祈ること。引いたり、一緒にイライラしていた自分から、そうではなく、祈りという行動に変わった自分を感じます。それが正しいというのではなく、穏やかな方がいきやすいと私が思っているので、ただ黙って祈ってるだけなのですが、そうしていたらこないだ祖母が夢の中で、笑っていました。そしていいます。「あなたは大丈夫。」と。母と私を含め、みんなを見守ってくれていたのだと感じて、自分の過去がすっと軽くなりました。ありがとう、おばあちゃん。

 

   そんな私の暮らし。週に一度のネットに繋ぐ時間。フレンチのお友達が子どもたちの声を歌にしてくれることになりました。歌を作れる彼女の彼氏はスペイン人。世界が近い暮らし。人との繋がりがあたかく心地よい。素晴らしい経験をいただいています。

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