日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

服作り2018年。自分用。

hoorayさんの型紙でエプロンスカート。

キジキジさんのハーフリネンで。

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バックが可愛いのです。

こちらは布もようさんのハーフリネンだった気がします。

二枚作ってうちで使いまくる予定。

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こちらもhooray さんの型紙でサルエルパンツ。

冬のワンピは寒いので薄めのこちらを履くとバッチリ。

布もようさんのネルで作ってます。

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今日は寒いので朝から冬の漬物作り。

うちにこもってます。

 

今日の子供たち。2018年初雪の日。

風が強いさっぽろ。

今朝から子供たち、庭を走り回って、風に乗る練習をしていました。

 

んで、3時を過ぎて、この風に乗って旭川のばーちゃん地まで行くっていうんです。

おお、すごい夢ですな。

行っておいで、というとお弁当の準備を始まる大ちゃん。

 

おやつとお芋とお茶を1時間もかけて準備して地図見てばーちゃんちをしらべていざ出陣。

大ちゃんはおべんととあったかいおちゃつめて、こゆはカバンに地図つめて。

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見送ります。

ゴーゴー、ふたり。

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この動きを見てると面白い。

風の向きを知るために薪ストーブの煙突からでる煙を見て傘を構えているのです。

そして風の音を聞いて風の強さを感じます。

 

大きな風が来ると、それ!、と傘で風を受けて走る、走る!

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これ、だんだん日がくれてライトが意味をなすんですけど、大ちゃんが遭難を恐れて、リタイア。

こゆは行く気満々で号泣。

 

本気で行く気だったんだけどね。

頑張ったね。

楽しい1日だったね。

 

山での暮らしの子供たち。

創造的な遊びを次から次へと形にして、1日を過ごします。

わたしは遊び込んだ経験がないから見ているととても興味があって面白いのです。

明日は行けるといいね。

 

 

久々の工房再開。2018、冬物編。

去年買った生地、ちょっとセンスが変わったので使い尽くすべく、先日買った生地と合わせてこの冬にきるものをこさえています。

 

まずはこゆの。

型紙はtocoさん。

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接結ニットと天竺のドットでふわっとワンピース。結構丈が長いのでお姉さん風。タイツとかぼちゃパンツで合わせたら寒くないかな。ドットの生地ははslowboatさん。

 

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ミニ裏毛とチェックのドットで。こちらもslowboatさん。大ちゃんとお揃い風です。

 

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こちらはチュニック。ミニ裏毛といただいたウール混の千鳥柄。裾に黒いレースつけてます。

ガウチョパンツとはいたらかわいいかな。

 

こちらはブラウス。

ネルのブラウスウオッチ。生地の森さんのはあったかくて一枚で使えそうです。

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頂き物のネル。ちょっと大人っぽすぎるので下に履くものをあかるくしようと思います。

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雨が降ると停電する我が家。着画は後日アップします。

昔のうちもそうだったんだろうな。これくらいがちょうどいいのかもしれません。

便利じゃないからやることに終われないというメリットもあるから。

 

 

 

 

 

好きなことに没頭すること。

冬に向けて服を作り始めました。

ちょっぴりこもりたい気分なので、自分に厳しくするのはやめてこもってみました。なんだかんだで昔からの習慣はしつこく自分を縛ってる。自分が頑張ればどうにかなると思って無理してストレスためる生き方が。。

意識してそんな自分に気づいて行くことを小さな目標にしています。

 

カタカタミシンふみながら考えてます。

私は小さな頃からこうやって好きなことをじっくりすることがなかったな、って。

寒さに向かうこともあり、神経が緊張してる、ということで現れた自分のイライラだけど、神経の緊張は、子どもの頃、争いが絶えない実家での時間に気をもんでいた所から来てるのだとおもう。

 

精神的に病んでいた母が穏やかに過ごせるよう、気を気張り、母の心配の対象であった姉と弟にも構い続けてきた自分の生き方がこうして顔を出すことに正直びっくりしてます。

いつも気を張り巡らせ、物心着いてから自分のしたいことよりも家族が優先だった。

悔しいけど、自分の育ちが、親との暮らしから引き継いだことがどこまでも影響してくることを痛感する日々。

 

私は幸せになれない、そんな言葉が口癖だった母。

私はそれを我が子に押し付けたくなくて、受け継いだその考えと行動を変えたくて心の片隅に、子どもの人生を邪魔したくないというモットーを持ちつつ日々を過ごしています。

 

自分はどう日々を生きて行きたいか。自分はどんな姿で子どもの目に映っていたいか。

今すぐには変えられない自分を受け入れ、長い目で変わって行く自分を待ちながら子どもと暮らして行く。

行動を通して、気づきを通して、変わっていく自分を待つ日々。

 

子どもや旦那さんのする行動や考えることに日々ハッとしたり、感心したり、日々の中にどれだけの感動や驚きが詰まってるのかってことも実感しています。

 

そう、だから今日は、自分が好きなことに没頭したことがないのにびっくりしてます、苦笑。

だいちゃんやこゆを見てると好きなことにただただ時間をかけていて、その好きなことっていうのが誰から教わるっていうのではなく、好きなことを自分でしていくからの発見が詰まっていて、その積み重ねで今がある感じで、自分が感じてきた違和感をふと思い出します。

 

プールにエレクトーン、塾。。

習い事をしてはプロに習ってきたけどどれもしっくりこなくて。親に怒られながら宿題して練習して、やめたくても石の上にも三年だって言われて続けてきて、好きに慣れなかった。

うちのそばにある教室に通ったけど先生との相性が良くなかったのだろうと思う。

上達することがおとなの目的で、それに向かってしまったため、子どもである自分自身が楽しい時間をその中に見いだせるような味わい方をできなかったのだろうと今かんがえるとおもう。

 

できるようになりたい!

そのスタートは楽しそうにそれをしてる人をみたからだとおもう。

自分もあんな風にできたらいいなって夢を描いたからだと思う。

 

それはきっと、手短なものでは代用できないもの、だったのだろうな。

この人が素敵だな、って人と出会えることがその思いに寄り添えるのかもしれないな。

技を習うのではなく、生き方に触れる、そういうことなのだろうと思います。

 

そう、思いながら今はミシンを踏んでます。

こどものころをやり直すかのように、早起きしては自分が好きなことに没頭する。

自分がそんな経験したことがないって気付けてよかったな。

昨日の自分よりもう少し、この子達に寄り添えるようになって行くだろうか。

自分のこどものころの満たされなさを埋めていけるだろうか。

 

そうしてじっくり自分と家族と過ごし、きづき、むきあい、私自身のかかえてる神経の緊張する習慣を変えていけるのだろうなとおもう。

自分の育ちのせいにしても解決しない、母となった自分の今を変えていくのは自分自身。

支えてくれるいまの家族や友人たちに感謝をしつつ、今を楽しみつつ、変わって行く自分を待ち続ける。

病もね、きっとこうした習慣からきてる。

不安症でいつもてばっかり洗ってたら、洗わずにはいられなくなるように、自分が縛られていく。

 

母との間で生じた苦しみがもう少し少なかったらよかったけど、これを背負って生まれてきたからには仕方がないから、この経験が自分を深めてくれると信じてこえて行くしかないとおもう。

 

わたしにとって、自分のこころの平和と家族の平和のために、パーマカルチャーはあると思ってます。

自然な暮らしだけではなく、家族ひとりひとりが無理をせずにコミュニケーションをとりながら、家という巣で安心して暮らして行けること。

 

子どもたちを外に触れさせてあげたくて、自分のモチベーションをコントロールして人の集まる外に出てきたけど、子どもたちの方がしなやかで、時には休憩しても大丈夫、ということを教えてもらいました。

外で誰かに認めてもらう作業をしなくても、ここで、一輪車でうちの庭を一周してー!に答えられることが、自分が一番幸せな時なのかもしれないとストンと腑に落ちた瞬間。

そうかー。

 

ふと思い立ち子どもたちとティッピを作りました。

作ってたら大ちゃんがここでおやつを食べたいと、クッキー焼いて飲み物と一緒にカゴに詰めて持ったきてくれてね。

何かを作り出すって嬉しい。

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暮らしが楽しい。

大ちゃん、この季節になると風邪をひく。

冬に変わる時だから体が調整をしてるのだと思うから、この時期はなるべく気長に付き合うように、風が経過していくのを待つ。

 

小さなうちの中にいるのもいいけれど、外が近いから外の空気を入れに外でご飯を食べてます。

日当たりが良いから心地いいのです。

咳き込んでいた身体がピタリと小休止。

やっぱり人も動物なんだなと感じる瞬間です。

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近頃幼稚園に行けてないけどピクニック気分でうちが楽しくて母子でうちにこもってるからストレスたまる、っていうのがないありがたさ。

街中じゃないからどんな格好して外にいても、子どもたちがご飯投げ出してどんなにはめはずしてもじゆー。

大ちゃんはのんびり読書。

こゆは三輪車暴走族。

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冬支度と体調不良に感謝し、家族でのんびり過ごすひと月となりました。

私は引っ越してすっかり楽になった気持ちが近ごろちょっとイライラしがちになってる、と思ったら血液検査で神経の緊張があるね、ってことがわかったのでのんびり自分のペースで行かせてもらうことにしたし、よかった。寒さに向かってることと、密閉された現代の気密住宅ではない初めての冬でちょっと身体がかまえてしまったみたい。

 

さてと、まき小屋の上でお茶でもしようかということになり、外が気持ちいいからそのまま外で火を起こして湯を沸かす。

枝や葉っぱを集めてくる。

雨で濡れた葉っぱの山の下からなるべく濡れてないものを探し木っ端も初めは濡れてないものを、枯れ枝の中の方を穿って集める。

雨上がりの大地での火起こしは大変。

だいちゃんは慣れたもので外で火おこし始めるとブロワーになるものをどこからかみつけてくる。

やっと起きた火を子どもたちが遊びに使い始める。

 

大変なだけに思えるかもしれないけれど、雨だろうがはれだろうが火起こしはワクワクする。

焚きつけをつかわず、そこらにあるものとマッチがあれば火がつけられる。

9ヶ月、ライフラインのないところで暮らした経験は頭でなく、からだに染み付いていて、起こすのに時間はかかるけど、子どもたちですら苦もなくやってのける。そして火起こしだけでなく、そんなことが多くあり、暮らすことが楽しいなあとおもう。

 

ドーナッツ焼いて。 

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チーズの燻製にして。

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今日もいい火(日)だね。

 

まき小屋でお茶ターイム!

秋ももう終わりに近づくさっぽろです。

 

家族との関係を築くということ。

時々、気分の波が来る。

人としてあることだし、そのことは悪いことではなくいまはそうである自分を一歩引いて見つめて受け入れられるようになれたらいい。

 

そう思うけどまだまだ行動はついていかないので、少しずつできる範囲で積み重ねる中で今を生きるようになった。

 

でもね、近頃、家族に怒る自分に違和感を感じてることに昨日、ふっと気づいた。

 

特にね、子どもたちに怒るとき。

彼らが自分の経験で知っていく、それが人生なのだから黙っておくのが一番なのにね、ちょっとだからってパンとかもらっちゃうから喘息が治らないんだよーっていう。一度や二度なら、伝える、という意味でいいとは思うのにね、自分の虫の居所悪いとつい行ってしまうのです。

 

そしてまた余計なこと言って、やな雰囲気作った上に、子供達に罪悪感持たせてるなあ、って反省してる自分がいて。

 

この繰り返しがすごく嫌になってることに気づいた昨日。。

でもふと振り返ってみると子供達だけでなくて旦那さんにもこういうことやってるんだって気づいて、ここを変えて行けばもっと自分たちがピースフルな関係になれるんじゃないかって思った。

なかなかこのサイクルから抜け出せない、それはなんなのか。

 

問題は自分にある。

こうして自分の不安やイライラを押し付けてしまう原因はどこにあるのか、かんがえはじめた。

相手に対しひていてきなきもちになったとき、多分、それは相手のせいじゃない。

相手が抱えた問題ももちろんあると思う。

でも私はどうしたいのか、どうありたいのか、って考えた時に、やっぱり問題は自分の中にある。

 

うーん、なんて言えばいいんだろう。

例えば、「うちの子は」って謙遜することや、「うちの旦那なんて」っておもうとき、それは自分が劣等感もってる部分だったり、自分が旦那さんと丁寧にコミュニケーション取れてなかったりすることが原因なわけで、自分の子ができないわけでなく(母として自分の恐怖心から我が子の石橋叩いて経験させてあげなきゃできないのは当たり前だし)、旦那さんが仕事にかまけてるせいではない。

 

こういう思考になり始めて、数年。

心の何処かにいつもこの思考を使うスイッチがあるので、少しずつ修正をはじめた。

 

そして近頃、もやもやという苦しみの中に突入してた。

先日あたりから子どもたちによく、今怒ってるの??とよく聞かれるんだけど、その度にいつも眉間にしわを寄せていた母を思い出し、一緒にされた気分になってイラっとしてた。

でも数日経って冷静にそんな自分を見つめ始めてる自分がいて、たしかに母の顔をしてる自分がいた。

 

そういう風に自分を観れるようになったこと、私もわずかずつ成長してるし、ここから抜け出せるチャンスを頂いてるなあって思うのでそれを励みにここをこえなくちゃな。

 

気分のなみがちょくげきするのはいつも家族だから、そんな自分を変えて生きたいと思う。

ここに平和なくして楽しみはそう多くないだろうからね。

 

昨夜、急に温泉にいって子供達は旦那さんとお風呂だったから、怒った自分はどうしたかったのか聞いてみた。いろんな目標を決めたり、本読んだり、この人みたいになりたいって思ったりして来たけど、ぶっちゃけこの方法は読んだその時、会ったその時にしかきかない。

 

もう自分に聞いてみるしかないんだなってふっと思ってね。

自分に聞いてみて自分がやりたいように、なりたいように向かって行く、今度はそうしてみようって思ったら気持ちがふっと楽になった。

こんな習い事をしたい、こんな生活したい、こんなとこ行きたい。

そういう行動はたくさんして来たけど、実は時間の流れが速すぎて、自分の気持ちをプラスもマイナスもちゃんと受け止めて、自分と対話したことなんてなかった気がする。小さな頃からそういう経験が極端に乏しかった。

 

まだ自分の中の答えは出てない。いずれ言葉でなく、行動で出ていくのを待とう、とおもう。

それが変わるということなのだろうから。

 

瞑想やヨガが世界的にブームなようで旅人ほどそういうことをする人が多い気がする。

タイを旅した時も、そういう時で学んでる人が多くて、もちろん私も興味がありました。

けれども、自然の中で暮らす時間が長くなるほど、それはスキルじゃないんだって感じます。

 

自分の中の違和感に気づいた時、日々のふとした時間の中で自分に問うてみる。

毎朝瞑想したとしても、この小さな違和感はその時すでに忘れてしまってるから、暮らしの中での心のゆとり、時間のゆとりを持てる心で暮らそうという気持ちが大切なのかもしれない、って感じます。

 

うちの子どもたちは、それを身につけられる環境の中で暮らして来たから、日々、それをできてるんだろうな。自然とそんな人が彼らの仲の良いお友達になっていってくれていて、すごいなあと思います。

 

この暮らしになって日常の一コマ一コマの中の楽しみ方が、また変わりました。

これね、パン屋さんで惣菜パンでなく、食パン買って来たんです。あ、娘は念願の菓子パン一つかってるけど、笑。

自分たちで火を起こしてバーベキューパンにして食べてね、といってどこっと渡した時の様子。

かまどゾーンに石が並べてあって面白いから思わず写真撮りました。

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先日もおせんべいやフルーツをやめて、生栗を買ってきて好きなように食べなーと言って渡したら、それも楽しんでました。この日は圧力鍋で蒸してたけどね。

便利じゃないってね、こんなにも楽しいなんてね。

 

週末はサンマ買ってきて枝にさして塩焼きしようとおもいつき、もりあがってます。

来週あたりは焼き芋かなー、燻製かなー。

週末の家族イベント目白押しの秋です。

 

人が暮らすということ。

人が生きていくということを感じる。

人が暮らすということはどういうことかを感じる。

 

私たちが暮らすスペースを少しください、と言って始めた山暮らし。

けれども日当たりが悪すぎて周りの木を少し切らせてもらった。

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旦那さんに立ち会って私は娘と幼稚園へ。かえってきてね、その光景をみて、絶句。

おおきな木が数本倒れている。

まず木に謝ろうと思った。

そしてありがとうもつたえ、切り倒す前にお清めをしていてくれてるけど、私も神様に気持ちを伝えるために、お酒を持って木を見て回った。

きちんと自然に対して向き合いたいと思う気持ちが、ここに来てから日に日に蘇ってくる。

自分がこうしていかさせてもらっていることに、ただただ感謝しかないと思う気持ちがつよくなってゆくから。

 

何十年、ここで育って来た木なのだろう。

我が家一家が住むためにこの木々を切らせてもらった。

この木を倒したことで、家中のカビ問題が解決して、冬の北海道の寒さをしのぐまきになってくれる。

それから自然から生み出す暮らしを形にしたくて、これでまな板を始め、簡単な家具を作らせてもらおうと思う。

 

言葉ではうまく言えないけれども。

けれども、アウトドア、というのとは違う感覚で、自然は私たちに寄り添い支えてくれてるんだという思いがこの森の中で日に日に強くなっていっています。

 

野生の動物がここに住むのに木を倒したりしない。

こうして木を倒した、水を運ぶ水道管をうめ、火を起こすのは人だけだということも。

人が暮らすのにはいくら小さく暮らしても他の野生動物には敵わないくらいのエネルギーを使い、自然に手をかけさせてもらうのだと痛感します。

 

私たちは便利しか知らないなか育って来ました。

だからね、それが悪いわけじゃあ決してない。

でもね、この便利さをこれからどれくらい使い、自然の存在をどのくらいかんじて暮らしていくのがこれから生きていく子孫のために必要なのか、考えていくことの必要性を感じています。

 

子孫が幸せに暮らせる暮らしが自分たちの心をみたし、幸せにしてくれると思えてならないから。

 

自然は人の手では戻せないものであり、人の技術を使えば木々が少し早く育つかもしれないけど、人の手を使わずに時間をかけて育った木々ほど丈夫なものはできないんじゃないかなって思うのです。

やっぱり人は自然にはかなわないって、そう感じているから。

 

倒させてもらった木の中に山ぶどうがありました。

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ここから丁寧に探しだし、大ちゃんと採取。子どもたちにジュースでも作ろうと思います。

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ツルも使いたいけど、本来、カゴ用のツルの採取は梅雨時だとか。恩恵全てをどう使えるか考えて無駄にしないようにしたい。

 

便利さに頼るいぜんに、私たちは野生動物と比較してもこんなに自然から得させてもらってる。

それを忘れてはならないんだと痛感する今日この頃です。

 

そしてね、自然の暮らしの中で人はどうしようもないことを受け入れる心や謙虚さも身につけているのだと思います。

自然の中でのくらしはどうしようもないことがたくさんあるから。

でもそれ故に、いきるのがらくになったぶぶんもたくさんあります。受け入れるしかないことは、ジタバタしても仕方ないもの。

 

我が家のホームスクールは子どもたちだけでなく、私たち大人も共に学ぶばでありました。