日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

食事療法。

そんなわけで2年半前から我が家の食生活は変わりました。

 

発芽玄米ご飯、漬物、おつゆ。

基本はこの三つに煮物やサラダが加わります。

ベジタリアンではないので時々お肉やお魚、卵も加わります。

 

調味料は醤油、塩、酢、お味噌。時々自家製塩麹、ひしお、梅酢、あぶら。

 

そうしてみたら4歳のこゆはお肉を食べなくなりました。お肉の匂いが嫌い、というのです。

当たり前のように食べさせてきたけれど、これはこゆにとってひつようにないものなのだろうと、おみっています。お肉のものを食べるときはこゆはおにくをのぞいてたべています。

 

必要な栄養だから、とあたまえでかんがえてきたけど、どうやらそうじゃないみたいです。

自分のそばで取れるものを中心に出してきたらその中に必要なものが入ってるみたいです。

野菜、米、時々果物。あ、お魚は食べます。

 

逆に大ちゃんは時々お肉を食べたい、といいます。

お肉は取れないのであまり出してなかったのですけど、自分から食べたいというようになり、スーパーにもいかないので本当に時々しか出していなかったらこの春、ちょっと貧血ぎみに。去年はそれでよかったようなのです。でも今年は9歳。彼の成長に必要だったということでしょう。最近はお肉やお魚をもう少し食卓に並べています。

タイで平飼いじゃない卵を食べすぎてアレルギー数値、あがっちゃったので、もうじきにわとりかうので、卵を食べられるようになってほしいな。品質の悪いものを食べさせるくらいなら違うものを食べた方がいい、それを知った貴重な経験。

 

大人はこどもたちにあわせてだしたものをなんとなく食べてます。それでいいみたい。

 

昨日、イベントがあったことや、先週の旅行で、小麦粉やお砂糖を取りすぎてしまい、こゆのからだに発疹が出てます。困ったねえ。。

でもこれをきっかけにこゆは自分でこうしたらこうなる、っていうのを積み重ねて自分で食べ方をきめてゆくのだろうとおもいます。今日はしちゃったけど、これからは出ちゃったものに対してため息つきまくるのはやめようと猛反省中です。すこし、こちらでも気をつけつつ、そろそろ自分の経験も大事なお年頃になってきているから責めるんじゃない、わたしの気持ちが伝わればそれだけでいいのだから。

 

でもシンプルな食事にしたことで、いつもと違うことすると、どんな変化が起こるかわかりやすくなった。

食事の支度が簡単。冷蔵庫いらない。

 

その相乗効果でどうしたら生活や家事がシンプルになるかを身体で持って考えられるようになりました。

頭で考えても答えが出ないことってたくさんあるんです。わたしの場合特にそう。

 

削ぎ落とすということをホームドクターに教えていただいたら、思考まですっきりしてきた。身体にたまった余計なものを削ぎ落とす=身体が軽くなって動けるようになる=ドロドロの血がすっきり流れ始める、ようなのです。実感としてですが。

 

どうしても答え出なくて、もういいやーって口にしていたら、数晩ねると自然に答えが出ていたりします。身体が勝手に答えを出してくれてる感覚でした。

 

そういうことが多々あって、わたしはもう一度自分を整理してみました。

自分がわたしとしてどうここに在りたいのか。

 

そうしてみたら、2年前まで、育ちの関係で何かが起こると自分がわるいから仕方ない、ってかんがえにおちいっていたんだけれども、そうじゃないって気づいて。わたしは愛を持って誠意を持って日々をつみ重ねていて、経験値の低さからくる自分の未熟さはあるけれど、今は自分に嘘をついて生きていないって思ったのです。そう気づいたら、それでいい、って思えて。自分に対しても相手に対しても愛と誠意と優しさを持って、今の自分のできるマックスを使った。それならば、そこをうまく切り抜けられなくても仕方なかったよね。いや、十分やったよね。それでもう少し、うまいこと対応できるようになりたいと思えばそれも学びなのだと。

 

わたしの冷え性が一昨年、去年、今年、とあきらかによくなってきています。

それは身体の血が流れるようになったこと、緊張が緩み毛細血管を通って心まで血が流れてくるようになったこと。

食事も、ふんどしパンツも、ごしんじょうも、レメディも、みんなの愛を受け取れるようになったことで変わった心の持ち方も、すべて全てのおかげなのだと思います。

 

思考や行動がうまくいかない気がする、緊張が抜けない、ってことが続くと、家族にお願いしてわたしは今日は寝てる日!を設けたり、夜だけでなく、まいあさおふろにはいります。お風呂でひたすら身体をマッサージする。それが私の身体のいたわり方で、自分の身体を休めてあげる、ことに集中して色々考えるのをやめられる方に持っていきます。これからはここに畑仕事が入るのでしょう。

 

そうするとなんとなくまたあったかいちがかよいはじめるんです。

そうしたらふわっとした気持ちになって、今まで考えてたこともどうでも良くなって、自分の優しい気持ちとか愛とか誠意とかを、思い出す。というか身体から出てくるのを感じる。

 

こうした時間を、今までは

旦那が忙しすぎるから!!子どもが小さいから!!

って人のせいにしてきたけど、自分の思考を変えるだけでできてしまうことも今は知っています。

 

昔の自分に言ってあげたいです。

身体をいたわれば、自然に自分を愛せるようになるよ、と。

身体をいたわれば、本当に自分がどうしたらいいのか、自然と見えてくるはずだよ、と。

申し訳ないって思い込んで黙ってないで、やさしい気持ちで旦那さんに伝えたらきっとそうできる時間を得ることができたはずだよ。

家事を投げ捨てる覚悟決めたら子どもたちのすいみんじかんつかって、1日1時間だけでも確保できたはずだよ、と。

 

人のせいにする思考はどこから生まれたんだろうな。

両親の癖からひきついだものがおおきいのもしれません。

それを今やっと手放せてきた。

 

物事は自分が起こしてる。

それが嫌だと思うなら手放すことができる。

いろんなことが起こるけど自分で自分を愛せることだけしていこうと思ってます。

自分が嫌だと思うことはしない。

もう自分を裏切りたくない。

そうおもうから。

 

食事療法、マクロがいいとか、原始人がいいとか、発酵食がいいとか、じゃないなあって思います。一つだけ言えるのは情報はおいすぎるとよくないらしい、ってことだけ。精神衛生上、良くない。

 

知り合いの方が、甘酒を毎日飲んでたとおもったら、おすをのみはじめ、そうしたと思ったら、今度は玄米食を始めた。そうしてサプリもたくさん飲んでいてね、大変だなあって感じてます。健康食と言われるものを増やすより、食事量も含めて、取り入れるものを減らしていく方がからだはらくになるのだとおもいます。それから足したいものを足したら変化がわかって面白いだろうなあ。

 

今、自分で身体のここをよくするにはどうしたらいいか、考えるようになりました。

自分の身体と自分でむきあうれんしゅうしてます。

治療を受けることも、自分で決めて生活習慣を変えて治るのを待つことも、結果は変わらないのかもしれないし、よくなるかもしれないし、悪くなることもある。

どれを選んでも同じなのかもしれない気がしています。

 

ならば自分がしたいようにしてからだと向き合っていこう、そう思う今日この頃。

私自身が怪我して痛くても病院行かないことがあるのは、そうして身体がどうなるかを自分で知りたいから、という好奇心。こないだの指の骨折(だろうと思います)は半年かけて自力回復してくれました。身体ってすごい。家族の時は本人の希望も聴きながら対応して生きたいなと思います。まずは自分の身体で実験できてよかった。

 

私の場合は食事療法バンザイでした、笑。

身体か楽になれば生き方が変わって行く。そんな話、聞いたことなかったよ。

 

心も身体もいぜんよりはずっと軽い!

でもまだ抜け切れてない分はゆっくりお付き合いしていくしかないからね、よろしくね、わたし。家族に、友人に、先生方に、感謝です。

自然療法を始めて。

2年半前に食事療法を教えてくださるお医者さんと出会いました。

 

そこでね、わたしの価値観を変えるたくさんの話を聞きました。

身体が滞っているから身体の不調があるということ。

体調不良は薬で治るんではない、習慣を変えないとまた病気になるということ。

足は第二の心臓、日頃からたくさんあるくひつようがあるということ。

大人の1日三食は食べすぎ、もっと少なくてもいきて行けるということ。

自分らしく生きれば病気になりずらいということ。

 

まだまだたくさんあります。おもいだしきれません。

 

その頃のわたしは朝、起きれないほどの体のだるさを抱えていました。

娘を産んだときに切迫早産になって二ヶ月も入院した理由がわからずにいました。

自分がどうして病気になるのかもわからず、自分が手放したい自分の癖がどこからきているのかとも向き合えず、人のせいにしていきていました。

 

その苦しみを子どもたちにぶつけ、旦那さんを含め家族がこの暮らしに居心地の良さを感じていないのでは?なんて考えたこともありませんでした。

イライラすれば子どもたちにぶつけ、旦那さんにぶつけ、ママ友に愚痴っていました。

うまくいかないのは一体なんなのか、考えようとしてもそのいとぐちがみつからずにいました。

 

そんな中、心の友が紹介してくれた自然療法の先生。

不思議な先生でした。

 

息子の喘息の治療に通ってるのに、なぜか家族全員血液検査をされ、家族のアレルギー数値を調べてくれる。。

長男をみたあと、あかあさん、どこかぐあいわるくないですか?ってきかれ、自分がだるくて、まいあさおきあがるのに全力を注ぎ込まなくちゃいけなかったことにきづき、気づいたら自分が受診してる。

子どもだけじゃあなくて、家族全員食事を変えてください、っていわれる。

 

面白い先生だね、旦那さんとそう言いながらも通い始め、一つずつ疑問が溶けて行きました。

 

子どもたちは親に長生きしてもらいたいから、病気というかたちできづきをくれているということ。

先生が家族のアレルギーを調べることで自分達の身体に合わない食べ物を教えてくれました。自分にあわない食べ物を食べるということは身体を傷つける事にもなるんですよね。そして病気にもつながってゆく。

あとね、何もない田舎で暮らしてわかったんですが、私たちってね、本当にいろんなものを身体に入れすぎているんです。日本人って素晴らしい感性があるからどこの国のお料理も美味しく作り上げてしまうんだと思うんです。だからね、わたしは、朝はパン、昼はファミレス、夜は家で天ぷら、カレー、オムライス、っていうのも当たり前のようにやっていました。おやつにクッキー、ケーキ。週末はピザやラーメン、中華まん。

日本人ってすごいんです。どれも本当に美味しくて、韓国人の友人も言ってました。日本のブレッド(パン)は超一流だよ、と。

 

わたしは本当に世界旅行をしたような食べものを当たり前のように食べてきたんです。日常の中で。

田舎で暮らした三ヶ月、わたしはタイのおかずと米しか食べていません。タイのおやつは甘くてふわっとしたものがなくて、甘くてパサパサしたドーナツとか、トラディショナルで美味しいのだけど米とココナッツとばななを使ったおやつとか比較的どっしりした食事のようなものが多いんですよね。

わたしはタイのトラディショナルおやつも結構好きなのだけどどっしりしてるのでそんなに食べれない。

なので果物とか自然とシンプルなものを食べる習慣がついてきづいたんです。

 

自分にあわないもの、多分たくさん食べてきたんだと思います。

和食を食べたのも自分の人生の半分くらいだったのかもしれません。

運動量より甘いものと油もたくさんとってきました。

 

先生が教えてくださったことにつながるたくさんの気づきがこの2年半でありました。

家族はみんな同じものを食べた方が、みんなの気持ちも自然に同じ方を向いていく、わたしもそうして見てみづからそう感じています。

そして子どもに合わせたシンプルな食事が自分の中に余計なものを入れないようにしてくれてると感じています。シンプルな食事に中毒性ってかなり低くって、お砂糖や油のような、止まらない感覚や、別腹の感覚がないことをしりました。

 

加工された美味しいものってきりがない、最近そう感じています。食べ歩きをしていた頃もありました。けれども日本人ってすごいから、いつまでも美味しいお店ができ続けるんです。お店のお菓子コーナーも新商品の数々。

 

ちょっとまえにふっと、こんだけ食べてどうすんのさ。ってわたしのそばで何かがそう言ったんです。

それ以来、外食欲がぐんと減りました。新しいおやつを買うこともなくなりました。

食べすぎたら身体を壊す、それだけは知っていたから、そう思うと、キリがないものに手を出すことの意味がわからなくなっちゃったんです。

 

時々、家族と話のネタにするために食べれたらいい、笑。話のネタはすでに尽きないけどね、笑。

 

そうして2年すぎ、いま、いろんなものを一気に食べてしまうと身体からのメッセージ送られてくるようになりました。胸焼け、発疹、イライラ。小さい子どもの体はさらに繊細で、顕著です。

でもそれが、じぶんのからだからのこたえなんだと感じています。

日本にいるのだから本来食べられるものは限られていて、でもその中にも美味しいものはたくさんあって。今はそれを見つけることが楽しいなって思います。

子どもたちは時々それを外に求めます。そうして加工品を食べて自分の体を通して知って言っています。

 

ホームドクターの先生はおっしゃいます。孫育ては今から始まってるよ。我が子の身体作りを支えてゆくことが孫の体に繋がると。わたしの切迫早産の原因はここからあったのだと思います。私の小さな頃からの甘いものの食べ過ぎは体を冷やし、骨盤などの臓器も緩めすぎたのだろうと想像しています。もちろん理由はそれだけではありませんが。

 

切迫早産の原因が自分にわかるなんておもったこともなかった。でも、全て自分のせいだって思うようになって、自分で原因が見つけられるようになったんです。そう、全ては自分からであり、自分の受け止め方次第。自分がどうありたいか、だけ。それがこの食事のおかげで発見でき、腑に落ちたんだと思います。子どもとのぶつかりも、誰かともつまづきも、相手のせいじゃ、ない。

 

で、田舎の山での暮らしは現代がどれだけ動かない暮らしかを教えてくれました。

台所に立つために野菜を取りに行き、薪をひろう。1日数度のトイレに山道を往復する。洗濯を足でする。町に買い物に出るのに家族四人で往復5時間歩いて、子供を抱っこするのに大人一人の手を取ることを考えて、持って帰ってこれるのはばななひとふさと、みかん1キロ、とうきび1キロくらい。

畑を耕すのにくわでいちにちはたらいて、畳2畳ほどのかいこん。水を得るために壊れた水道管を直すのに走り回る日々。

 

これだけ動いても現代ほど食べ物を食べていなかったと思います。ましてやお砂糖、油なんてなおのこと。だからホームドクターのお話がすごくすんなり入ってくるのです。わたしだけでなく、こどもたち、だんなさんも、日常の会話でお互いにこの理解が共通しています。

 

便利はありがたい。先人の知恵はすごい、そう思います。でもね、便利な今の暮らしが本当に便利なのか、最近疑問を感じることもあります。

こうして身体を動かしていた頃の方が、ストレスが溜まっていなかったんじゃないかって思うんです。人間だって動物だから動く必要があるからだだと感じてます。あとね、子どもとの暮らしで思います。便利になって手を抜けるようになった分、我が子や他人の評価をする時間が増えてるように感じているのです。もちろん自分の他人からの評価を気にする時間も増えた。

暮らしのために働く大人の後ろ姿を見て育つ子どもの中に、うまれてくる優しさもやっぱりあったのだろうと思うのです。あかあさんたいへんだから、てつだおう。そうしてお母さんは我が子にありがとうっておもう。手伝いってさせるもんじゃなくて、必要あってそうなったり、子どもの配慮でうまれるもの。

 

先生の食事療法、私たちを助けてくださって、わたしは今、子供達と外に遊びに行くことができます。

そんなこんなでシンプルが好きなわたしは食事には時間をかけません。そのせいか、大ちゃんが料理に興味を持ち、よく作ってくれてそれもいいきっかけだったんだろうなって思います。大ちゃんのご飯はわたしの作ってものと似ているけど本当に美味しい。こないだの朝ごはんは大根の漬物とご飯、あぶらげのおつゆに、新もののスナップエンドウの塩茹で。彼のセンスで作ってくれた料理でうちであるものでこんな風にできるのが本当にすごいと思います。

時々いただく卵でオムライスをそれぞれが自分で焼いて食べるのも楽しい。いつもないものだからあるだけで嬉しくて、セルフオムライスで盛り上がれる、笑。

いつでも子どものリクエストに答えられない、そんな食生活だけど、それでもいいと思ってます。こんな楽しみもあるから。そう、思考もシンプルになりました。子どもたちがかわいそう、下手にそう思わなくなりました。

 

時々丁寧に作ってくれるパン屋さんで好きなパンを選んで、ごっちそうーって盛り上がって食べます。そんな楽しみがあるのは身体が元気だから。

 

うまく言えないけれど、わたしは自分の身体とこころが本当に軽くなったんです。多分ね、子どもの頃よりも。

 

でね、我が家のジャングルライフは先生の教えてくださったことが腑に落ちることがたくさんあって。理屈じゃなくて自分たちの身体がそれが自分にあうのか合わないのか答えを出してくれていて。アーシングとか自然療法てきなこととか、いろんなことが今言われているけど、理屈じゃなく経験として感じることが私たちにあって、少しずつここに記録していこうと思います。

 

ホームドクターの先生とお会いできたことは奇跡だったと思います。私たちが自然とともに生きていこうとしてるその道のりを支えてくれてる、そんなかんじがしていて。わたしがわたしとして歩き始められたのは先生のおかげで。先生はこれをみてらっしゃらないけどただただありがとうございますとしかいえません。

畑の手伝い。

をするようになりました。

旦那さんが今家を建ててるのだけど、畑をやる人の手が足りないので、週末はほぼ畑に行っています。

 

でね、やることはひたすら間引きと雑草取り。そして芽かき。

ひたすらひたすら黙々とやり続けます。

狭い部屋にいると喧嘩が絶えない子供達もここでは思い切り走り回ってトラブルが少ないのでちょっと没頭できます。子どもたちも収穫を喜んで手伝ってくれることもあります。

 

この時間がすごく大事で。自分のこと、家族のこと、畑のことをぼんやり考えてる時間。こういう時間が瞑想だなあって最近感じています。座って目を瞑るだけじゃなくて、こうして無心でひたすら雑草とりながらちょっと考えたりする時間が自分のことを整理したり受け入れたりするのに重要なのだろうなってふと思ったのです。

 

今はそとにしごとにいくことがおおいじだいだから、こうして自分の中で考えて整理したりする、没頭したりする時間がないんだろうな。トトロにでてくるかんたのおうちのばあちゃんたちがみんなで田植えしてる時間、みんなでやってるように見えて、自分の持ち場に専念するああいうじかん、すごく大事だったんじゃないかなって考えてます。

 

今私たちが、喫茶店に行ったり、子持ちのお母さんが自分の時間が欲しい、一人になりたい、っていうのは、昔はこういうとこで体を動かし発散するということもあいまって、いくらかうめられてきたものだったんじゃないかって旦那さんと話してます。(まあ大家族のストレスもあったのだろうけど、鬼嫁ってことばがあるくらいに、お姑さんばかりが強かったわけでもないでしょうから。今も違うストレスがあるし、どっちもどっちなんでしょうね)便利になった分体を動かすことが減ったからまた頭で考えちゃう時間が長いし、うごくだけで自然に抜けて行ったものもぬけていかない。タイ生活から帰ってそれは感じています。家族の些細なことにイラっとしても、野菜を取りに行ったり、洗濯がずぶぬれさぎょうだからいつまでもそんなことに構ってられなくて動いてるうちにどうでも良くなってくるんです。はつがした芽や見つけた果物にワクワクしてすぐ忘れちゃうんです。そういうことが日常の中にすくない。

 

ついでにいうと、便利すぎるが上に、我が子のことをうるさくいう時間が多すぎる、苦笑。子どもに手をかけすぎて彼らの育ちの邪魔をする。それに彼らが好きに遊べる場所もないから、うーん、長男の時は邪魔しまくってきたな、私。。とおもう。今、その埋め合わせをせっせとしてます。

 

楽しみが日常の中にあって、買い物に行くように1時間で済ますとかではなく、じっくり時間をかけて行うことが多く、どこかに楽しませてもらいに行く必要がないから、子どもたちは遊びを探すのが上手。そばにいたければ、そこらで木登りしたり木のみを拾ってきて焚き火で焼いたりしてるし、好きな人が通ると嬉しそうに話しかけてついて行っちゃう、笑。それを思うとゲームやレジャーのように他者に楽しませてもらうことってほとんどなくて、それににてることといえば人とのコミュニケーションを楽しむくらいでした。まいにちこれでもかって遊んだのに、辺りが暗くなりかけて、寝袋に入ろうとした時に好きな人が通りかかると、おやすみを言うついでに遊んでもらって、幸せそうだなあ、、って思ってました。

 

何かに楽しませてもらうことは近代になって急速に発達したんだと思うけど、それによって自分で楽しみを見つける力が弱くなってる気がします。いつだか、旦那さんが行ってたことがありました。私はゲーム機をつかって勉強するシステムが好きじゃないんだけど、って話し合いしてたときに、大ちゃんはゲームより楽しいことを知ってるからそればっかりやることはないでしょ、って言う言葉にしっくりきてね。じっくり自分のペースで楽しめるじかん、環境を一緒にすごしてきてよかったなあってかんじました。そう思うと、子どもとの時間も自分の時間と思えるような過ごし方をして行くことで、子どもたちはますます大人になることを期待できるんだろうなあと感じるので子どもたちと過ごす時間を大変!だけで過ごしてはそれもとっても勿体無い気がします。物理的な大変さはあるけど、それってけっこうじぶんで勝手に自分にかしてるだけのことがおおくて、必要なものだけ選択していながら今の自分をどう受け入れて行くかという、自分の問題、なんでしょうね。

 

あと、自然は1番の先生、というのも納得しています。でも我が家の場合は子どもたち以上に私が自然に接する時間が少なかったから、もっともっと私が感じることがすごくだいじなのだろうなあとおもいます。一夏に一、二回のキャンプに行くより、しょっちゅううちの近所の森や山に行く方が子どもたちが日々楽しめるんだってこととか、私知らなかったもんな。最近は遠くに行ってもこゆにとって移動のストレスの方が大きいから、遠くには行かずにいつも近所の山とか、畑とかで遊んでます。子どもたちは蛇捕まえたらそれでいつまでも遊んでるし、くわのみとってかおもても真っ赤にして食べまくって、今度はジャムにするって箱に貯めてるし、彼らにはじっくり、な時間が一番豊かみたい。くわのみってとっても小さいから自分が満足するだけ食べて、またジャムにするとなると2時間くらいすぐすぎて行くから。。

 

あ、それました。春の水菜から始まり順々に収穫できるよう育てているお野菜。

そうして自分で野菜を育てる、ことを経験して思うこと。

私は自然栽培がいい、お肉も抗生物質なしがいい、なんていって遠くから買っていたけれど、頭で考えるのは理屈にすぎなかったのかもしれないなあって。

 

今の畑は持ち主さんの意向で化学肥料をいくらか使ってるとこもあるからあんまり食べたくないなあ、って思っていたけれどもね。持ち主さんがすごくてをかけて愛情かけて育ててるんです。

で、除草剤使いたくないから雑草取りもこまめにやって、自家用なのに、今時期は農家さんとおなじ、はたけしごとですぎてゆくひび。

 

そんな日々の間引きや雑草取りを手伝いながら、自然栽培でないことが、いい、悪い、じゃないんだなあって感じたのです。持ち主さんがすごく素敵なご夫婦でそんな方々この方法を取っているにはこの方たちが生きてきた時間だけの経験があって、日々にかけている手間を思うと、これもおいしくいただけるなってふと気持ちが変わってることに気がつきました。

 

ほかの人と暮らすって相手の気持ちに寄り添うことも必要だし、それが畑で草抜いてるうちにストンと落ちてきて。で、何よりも私は、自分で一年分の野菜を作ると言う作業をはじめてやって、本当にね、大変な作業で。これを我が家だけでやってたら帰省や日々の幼稚園もいけない。

 

自分たちが生きて行くには自分の学びの中だけで、いい、悪いって判断できないものだってふにおちざるをえないじょうきょうにぶちあたったのです。

もちろんね、やっぱり子孫の代まで自然を残して行きたいから、やっぱりしぜんなものをからだにとりいれたいとおもうから、少しずつ自然な環境で育てて行くことにじぶんでちょうせんしてみたいとおもうのです。

 

でも自分でできないことを、いい、わるい、できめてたなあ、ってかんじたんですね。今の私が無農薬、無肥料でやったら、豆くらいしか収穫できないから、自然農法の農家さんをお金で応援しつつ、分けてもらうと言う方法しか現実的にはなくて。今まではそれだったけど、わたしも自然を自分の手で残す一人になりたいので、自分の暮らしを変える一歩として、この現実を受け入れることの大切さをみにしみこませつつあります。

地球環境を残す、と言う意味では遠くから野菜を取り寄せて、輸送のエネルギーをかけることも不自然だし、そのお野菜を取り入れることは身体にとってはいいけれど、そのための多くの食費を、ストレスかけながら働くのはそこもまた問題になってくるし、暮らすという行為は一つに切って考えられないなあってこれを考え始めるとエンドレスであります。

 

だからね、来年から今年学んだ知識をフルに使って一畳ずつ、無肥料無化学肥料にしてけたらいいなあってかんがえてます。自分でやらずに、農薬やら肥料やらいいたくないなあと。私は今まで家庭菜園ですらできなかったから、そんな時代であることを思うと、自分が引き継がなかったら、我が子の時代には野菜をつくることすら難しくなる。そう行ったことも視野に入れていきたいなあと雑草を抜きながら考える、笑。

 

食べることは薬。そうなのだと思います。だから野草を食べる。ふきのとうもよもぎもみんな薬。タイ料理はたくさんのハーブや木の葉いつも使うけどそれもお薬。

 

いろんな文化が入ってきて日本人は素晴らしい舌を持ってるからたくさんの異文化料理をじぶんたちのくちにあうようにしてきたけど、ちょっと食べ過ぎなのかもしれません。美味しいから気持ちは満たされるけど、それに含まれた添加物や農薬の影響も重なって身体の中でパニックを起こして、アレルギーなどになるんじゃないかなって感じてます。

 

で、ついでに異国のハーブをたくさんとることがどこまで薬になるのかな、って感じたりもしています。楽しいですけれどもね、ハーブ。まあ、どちらにせよ、身近な薬草が1番の薬なのでしょうね。

 

そんなわけで、色々つぶやいちゃったけど、伝統食であること、食べ過ぎないことが一番家計にも無理ないし、身体も楽なんだろうなあと思って、我が家の食卓はいつもそんな感じです。

春先は野草がぽちぽち並んで、夏は夏野菜と野草。今はどんないいものを取るかより、水分ある野菜やおつゆなどもいただいて、食べすぎないようにしています。甘いものやオムライスとかは胃袋に構わず食べすぎちゃうから時々。

 

不思議なことに、そうしてスーパーにいかなくなっても、時々、入ってくるんですね。しかもおうちで育てた烏骨鶏の卵や、無農薬大豆の油揚げ、さっき釣ってきたばかりのお魚。

ますます、それで十分になったので今の暮らしはこんな感じ。子ども達は時々、オムライス食べたいとかいうけど、そんな話をしてしばらくすると、たいてい卵をいただくので、今度たまごちゃんがうちにきたときねーって感じです。

 

一昨日は丼からはみ出んばかり大きなおあげとこれまた実家から届いたお蕎麦で子どもたち希望のきつねそば。おいしいねえ、しあわだねえ。。ありがたいねえ。。。。それを家族四人ではなせることがしあわせだなあって思います。もうすでに、食卓も「足りてる」ね。いろいろ周りを見ると美味しそうに見えるけど、おいしそうはきりがないことを子どもたちとともに感じながら暮らせているってありがたいな。子どもたち、時には我慢してることもあると思うけど、今の暮らしが好きかを常々家族で意見交換しながらくらしています。

 

まとまりなくなったけど、そんなこんなな今日この頃。

作った服。

毎日切る子どもの服より。

生地はHARUさん、HINODEYAさん。

柄ものはチュニック。このちいささがかわいい。

薄いラベンダー色はチュニックのつもりがワンピになった。

最近こんな感じのりねんにあうかたちがすき。

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なのでうちにある生地を形にしてお嫁に出したいなー、となぜかズボンばかりせっせと作ってます。

お友達のお子さんに作ったらコットンなので着心地がいい、ってコメントもらいました。うれしいなあ。そこは譲れないこだわり、笑。

 

ちなみにtシャツは大ちゃん用。黄色が好きなのでチーズがらで。袖はドルマン。

もう一枚はこれからはドット、ストライプ、checkを組み込んだらどうだろうか、というお試し。結構気に入ってます。やっぱりまだ柄物も好き。

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ちくちくてづくり。その1

すでにその1、じゃないけどこうして記録した方が整理しやすいかなと。

 

生地の整理も兼ねて作りだめ。マルシェのご縁があればあるだけ出させてもらおうと思います。あるかなー。。子どもたちと行動するので彼らの負担にならないように無理のないスケジュールで参加できるものを、と思っているのでいつになるかなー。。

 

サルエル型で7部丈パンツ。

この形、タイ暮らしでつかってきたのだけどお尻が楽で自分でも気に入ってます。

夏場は特にこれがいい。これにふんぱんはくと最強にむれない、笑。

若い人たちにはぴったりのレギンスのようなジーパンが流行ってたりするけど、いずれそれも経験したらいいけど、我が子の小さいうちはこのゆるゆる感を感じてほしいなあとおもう。

柄もの好きなんだけど、いろんな方の作品眺めてるうちに、無地とストライプとドットの組み合わせが男女ともにいけるし、かわゆく思えて来て移行中。今はこの感じが結構気に入ってます。

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とりあえず2サイズ。型紙がこれしかないんだけどこれ、可愛いから買い足そうか考え中です。とりあえず型紙と生地代だけでもえられたらな。。。買ってもらえるかわからないけど、マルシェだ。。

 

で、息子のも作ろうっと。。130サイズの大ちゃん。このサイズってジャージとジーパンが主流なんだけど、まだまだ動き盛り。コットンニットがいいなあって思うのです。大ちゃんも冬の履いた時のひやっとした感じが嫌だったり、柔らかいと安心する、そうで、リクエストが続きます。

先日、お友達に大ちゃんはジャージよりピンクが似合う、って言われたんだと嬉しそうに帰って来た、笑。

作ったものを喜んで履いてくれるってありがたいなあ。

これ、配色に失敗、笑。息子はハロウインパンツと呼んでます。たしかに。。

 

 

そうそう、お世話になってるホームドクターの先生は奥様がふんぱんに変えた時に、表情がゆるんだって、おっしゃったそう。

血液の流れって本当に重要なんだと思います。滞れば身体だけでなく精神的にも変化を生じるでしょうし、私はこれを初めてさんねん。小さい頃から砂糖の取りすぎによる身体のひえで(多分そうなのだろうと思ってます)切迫早産でこゆの出産に時に二ヶ月の入院、寝たきり生活でしたが、この冷えがだいぶ楽になりました。夏場の冷えも悩んでいたけど、身体の芯まで冷える感覚がなくなったように思います。

 

そんなことが実感としてわかったから最近はふんどしパンツを作って欲しい方にもお分けしてます。柄が可愛すぎるんだけどここの生地がきもちよくて。必要あらば生地の開拓もしていこうかな、とは思っているけど。

 

そんなわけでふんどしぱーんつ!

腰部分が紐がいい、っておっしゃる方もいますが、子どもと動く母にはゴムを入れるのが使いやすい。

理屈じゃなくて、自分ができる範囲で、やりたい方に近づくのが大事、だからむりせずに。緩めだから腰に引っ掛けてる感じで十分なのです。

 

娘がちょうど4歳なので4、5歳ようサイズもね。

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んで、Tシャツも。

子どもたちように多めに買った生地が思ったより多くて溜まって来てしまって。

アジアンぽくて可愛いと思って買った花柄、旦那さんに作ったら似合わなくてテンション下がってたけど、ドルマン型にしてポッケつけて子どもサイズにしたらかわいくて。娘が作った端から自分のタンスにしまって行きます。あの、そんなにしまいこんで使い捨てにしたらパーマカルチャー研究所をうたえなくなるんですけど。。。。

 

ポッケ付き、ハマってます。男の子の110センチ越えるとあまり可愛い柄が出回ってないし、可愛いの使うと可愛すぎるって言われるからシンプルな形にしてポケットだけドットやストライプにしたらきっといい。

これから作る大ちゃんの服はそうしよーっと。

120、110、100サイズ。赤と黄色のは生地が薄すぎて裏がガサツになってしまったので、マルシェの時にサイズの合う方に使ってもらおう。自家用としては十分いけるから。

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梅仕事。

今年もきました、梅の季節。

今年は20キロ、農家さんにお願いして16キロは梅干しに、2キロは黒糖梅ジュースに、2キロはお友達が梅干ししてみたいというので、梅干し作り講座しました。

 

最近娘がママモードのため、べったり濃ゆい時間を過ごしてるので公開講座はせず、個人的に伝授しました。でもこれが私のペースにはあってたみたいで、ゆるゆるで良かったです。

梅仕事、西京味噌や長期熟成味噌などの麹料理、瓶詰めトマトソースは毎年仕込んでるので、ここら辺なら手伝えそうなので、やりたい人に個人的に伝授することをプチお仕事にして行けたらいいなあ、と思ってるので、梅干しをやりたい、って言ってくれる方がいて感謝でした。ありがとう。

 

我が家の梅。今年は13パーセントでつけてます。

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一晩で梅酢を上げることに命かけてました。

なので寝起き1番に見に行ったのは梅酢。

上がってた〜!ありがとう、梅ちゃん。

重石がないので重し代わりにタライを乗せてその中に12キロのお味噌を重し代わりにしてます。

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黒糖梅ジュース。

去年から酵素ジュースはやめて糖度高めにして熟成期間伸ばして作ってます。

酵素ジュースも長期保存可能らしいけど手を入れたものを長期保存ってどうなんだろう。糖度高いからおみそのようなものなのかなあ。

でも目的は長期熟成なので去年のは手を入れずに自然熟成してます。

どのレシピも梅からエキスが出たら冷蔵庫保存って書いてあるけど、常温でも全然酸っぱくなってない。私たちの世代は冷蔵庫とともに生きてきてるから、冷蔵庫を頼らない感覚があまりないのだろうと思いました。自分で研究してみるもんですねえ。

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肉、魚、牛乳。昔は毎日食べてたのかなあって考えてます。

習慣で食べてきたから食べたくなってしまってるだけのことを自分が手放せば、冷蔵庫使わなくても結構豊かに暮らせるのかもしれないって、感じてます。

 

冷蔵庫使わないっていうと、エコライフとか節約、とかいかにも頑張って地球に優しく暮らしてます、ってアピールしてるように聞こえる気もするけど、そうじゃなくてそうして身体に取り入れるものを減らす方が身体にとっても、楽だし、家計にとってもらくになる。

実践して見てそれを感じてるので一応記録してみてます。

 

あとね、子どもたちにお菓子ばっか食べた、とか、好きなものばっか食べて、って言いながら、そういうものばっかり出してるのは親だったりする。喜んでくれると嬉しいから、その時はオッケー、あとで都合悪くなるといらっとしてそう言っちゃうことが私もあったから、食べるものお家族揃ってシンプルにするってことは、こんな矛盾を解消することにもなると思います。

 

小さい子のご飯食べたばっかなのにつまんなくなるとお腹すいた〜、というのも、スーパーに行くと喉乾いたーっていうやつも、多分いろんなもの食べすぎてることと、大人が子どもと楽しめることを食事以外に見出せてないから起こることなんだろうなーって感じてます。

自分がシンプルにするって決めて、身体が楽になる経験をして初めて私はそれを手放せた気がします。

 

ついつい買い物ついでに色々買わなくなったし、自分が今の年齢いの我が子とどう過ごそうかってすごく考えるようになりました。

だから1日が子どもと過ごすのが大変だったーって思わなくなった。疲れるけど一緒に過ごせて楽しかったし、嬉しそうに布団に入る我が子を見てまた嬉しくなる。

 

食べることより、楽しむことに全力投球してます。

今がどれだけ足りている暮らしなのか、足るを知るように心がけています。

今は実は足りまくっていて、足りないのは多分、心の持ち方を考えるとかそういう方なんでしょうねえ。

 

私もまだまだ日々精進だけど、物のない村で暮らした九ヶ月のおかげで、足るを知るということがどういうことなのか日々、感じさせてもらっています。

それはこれからのゆたかさにつながって行くと思うから、少しずつここでシェアしてみよう、って思ってまーす。

日々いろいろあるけれど。。

呟き続ける日々。

 

近頃見えるようになってしまった。。

幽霊じゃなくて、昔の自分が。。

目の前にいる人が、あれっ??と思う動きをする。

時間を過ぎてのドタキャン、自分本位の行動。

ちょっぴり誠意がないなって感じる日々。

なんでこういうことが目の前で立て続けに起こるのだろう。。とかんがえつづけることひとつき。。

 

気づいてしまった。。。

昔の私だ。。

 

穴があったら入りたい、半端ないくらいの誠意のなさ。

なぜ、そうなってしまったのかを、整理し続けてます。

 

で、そうせざるを得なかったことに気づきました。

自分の家族関係がそうであったから。

自分のことだけで余裕のなかった母、幸せになったことがない、が口癖だった母と共にいた私は大人になることの恐怖と、母を守るためにいつも細心の気を配っていました。

 

今思うと、全ては母のため、だったのかもしれません。

母を幸せにしたかったのだと思います。

でも、私にはできなかった。母の問題は母にしか、解決できないものであるから。

共にいる家族から気づきをもらい、自分で変わって行くしかない。

母はそんな大きなチャンスを得ていることに気づかぬまま、歳を重ねて今に至ります。

 

私は幸せになったことがない。

何が彼女を縛ってるのか、私は彼女の過去を調べました。そして、母の苦しみの底に、彼女のお母さんとの問題があることを知りました。

 

母との関係はダイレクトに子どもの人生に響いてくるものだと母の姿からも感じています。

母は、生きているけれど結婚に反対して以来、今でも私と会うことを拒否しています。

お母さん、自分から幸せを遠ざけるのはそろそろおしまいにしたら?

そろそろ、そう声をかけてみようとおもっています。

 

で、自分のこと。

自分の誠意のなさは、自分に対する誠意のなさだったのだと痛感しています。

母を守るために、自分の優しさ、意識、行動全てを母によりそわせてきた子どもの頃。

自分とは何かと向き合うことなく母の不安に必死に寄り添ってきた。

 

結果、自分も大人になる頃には不安の塊となり、その場しのぎでそれを拭うための誠意のない行動を繰り返してた。

 

穴があったら入りたいくらいの恥ずかしさは、自分のせいじゃないのだと今、おもう。

けれども外から見ればそんなことはわからない。

私は私に見えているのだから。

 

自分と向き合い整理し続けたこの五年間、私は自分が旦那さんに出会う前が自分じゃないんじゃないだろうかってくらいの、感覚の違いを感じています。

 

今の私は、ここちいい。自分のすることは自分と家族を傷つけないかを意識して日々、生きてる。きっと自分と家族を傷つけない生き方は他人も傷つけない。経験不足により、たとえまちがえたとしても心からの気持ちを伝えればきっと大丈夫。

 

大人になって私は、愛を感じられる人間になりました。

今の私には愛する人がたくさんいて、タイにまで家族ができてしまったのはこの苦しみを経験させてくれた母との時間のおかげでもある、かもしれません。まあ、今でも苦しみにぶつかるけれども、笑。

 

そんな私は多分ちょっと変わった人。

ずっと、心のうちの、そういうことばっか考えてますから。

人様とあっても、親子さんみて彼らの関係の中にある豊かさってなにかなあ、と学びたくて心が自然にそんなことを察知してます。

 

だからね、親子関係に関しては特に意識して日々を積み重ねています。

とは行っても私はこんな風に自分を見つめる日々で、子どもたちは自分でぐんぐん育ってくれてます。

私が安心できる場所で暮らさせてもらってるから、こどもたちもそこであいをかんじてきてくれるのだとおもいます。

 

昔、函館にいた頃、自主保育をしようと思っていました。毎日海や森で過ごしてみようって。

けれどもね、子どもたちだけ自然の中にいても意味がなくて。

家庭にいる時間の長い子どもたちは親の影響を大きく受ける。

だから、親である私がどうあるか、を見つめて、日々自分と向き合って調整して、自然の中で感覚を養ってるこのこと過ごす時間を豊かにする努力をしなければ意味がないって気づいて、我が子から学ぶ、というかんがえにかわりました。子どもだけを学ばせるんじゃない。

 

森のようちえん、自然学校。いろんな学びの場があるけれど、子どもたちがそういうところに行く分、彼らの感覚は研ぎ澄まされて行くと思うのです。スタッフさんに任せておけばいいのではなく、自然から離れた暮らしをしてきた私たち、おやの世代は、研ぎ澄まされた感覚を身につけた彼らと暮らすために本気で彼らについていかないと、つりあわないんです。それどころか子どもたちの足を引っ張るようになってゆく。

 

自分の経験からそう感じています。ある一定の時間だけ子どもたちだけそういうとこで過ごす、そうじゃなくて、まずは親子関係ができるかぎり感覚を揃える生き方を常にして行く必要があるんだろうな。

 

そうしてね、今の私はありがたいことに気づいたら側に一緒に過ごす日々を楽しめる仲間がいて血縁を超えたつながりになって。

 

今の私の足りないところをフォローしてくれる友達家族がいて、大先輩がいて。

私が今、幸せなのはそんな愛を感じられるからなのだと思います。

自分と家族にためにしてきた日々の積み重ねがこんな風に愛を感じさせてくれてるつながりになってる奇跡とありがたさ。ほんとうの私のこの幸せはお返しできない大きな大きなことだといつも胸がいっぱいになります。

ささえてくれるみんなへ、ありがとう。

 

私の母はそれを知らないからずっと苦しんでいたんだろうな。

そこを越えるのに私は今でも苦しむ日もあるけれど、一つずつ丁寧に我が子との残り半分を切ったかもしれない共に暮らす時間を積み重ねていこうと改めて感じています。

 

そして昔の自分との向き合い方も整理し続けていかなきゃなあ。

 

とにもかくにも子どもたちが幸せに生きて行って欲しいから、自分らしく生きる必要がある、その意味がまた少し腑に落ちた気がします。

家族への不満。

家族で生きるようになった。

 

五年前より確実に家族での時間が増えた。

けれども。

旦那さんがいるから 楽、って感じはない。

はっきり言って今の彼は結構忙しい。

毎日一緒にトモエに行けるわけじゃないし、一緒に食べるのは夜ご飯くらい。けれども夜ご飯もミーティングが入る日も結構ある。週末だって子どもたちがやりたいことを優先に動く我が家は、畑に行く旦那さんと希望が合わず、わたしがこどもたちとすごすからいないひもけっこうある。

 

私にとって子供との時間が楽になったか?と聞かれたら、そうでもないと思う。

体力ない私は毎日トモエに行って疲れて帰ってくる日々。でもその疲れも受け入れて見たら、今を生きてるってことだから悪いことじゃないし、無理に子どもを見てもらいたい、と思わなくなった。

 

うちの旦那さん、子どもに合わせるの苦手だし、無理に私の思いを押し付けることもない。

じっくり子どもたちに時間かけて寄り添いたいなら、自分がフォローすればいい。

 

大事なことは本当に疲れてる時は遠慮より先に相談するとか、自分はどう家族と過ごしたいか話を出来るだけ毎日するとか、その夫婦でのキャッチボールだと思ってる。

 

旦那さんにもたくさん関わってもらわなきゃと思わなくても、私が旦那さんとコミュニケーション取ってたら、子どもたちもパパのことを忘れないし、必要があれば自分からパパのとこに相談に行くし、そんな子どもたちがふと可愛くなって、子どもたちといるかーっていってくれる日もある。私が出来なければパパのことを待って頼りにしてる。

 

五年前と変わったことは、多分、私が、自分のやってほしいことを勝手に押し付けて、受け入れてもらえなくてイライラする、ってことがなくなったこと。

時々は怒ります。けれども、自分の期待を勝手に押し付けることはなくなった。

 

彼の出来ること、やりたいことにも寄り添えるようになった。

 

結局のところ、変わったのは自分。自分の気持ちの持ち方がおおきい。

 

だから旦那さんが変わることを期待していない。

いつでもそのときのままの彼でいい。そう言えるのは私も旦那もわずかずつでも変わり続けることをしってるから。

そういうおたがいの素晴らしさを少しずつ理解し始めたから。

彼に期待するより、自分が変わろうと思う。自分が自分に寄り添えればその中に学びと気づきがうまれてきて、何が変わりたいのか時間をかけて見つけることができる。

 

大変なのは自分が変わろうと思うと、苦しみも付いてくること。頭で気づいただけじゃ変われないってこと。

 

だから苦しい時はジタバタせずにそこを通り過ぎるしかない。そうすればまた嬉しいことがやってくる。嬉しいことばかりの日々に気持ちが明るくなった時、苦しみを超え、少し成長した自分に会えるはずって信じながらなるべく静かに苦しい時間の中を歩いて行く。

 

何度もそんな時間を超えた自分がいる。特にこの五年は私の何十年を取り戻すかのような時間だった。

 

今の暮らしは楽か、と言われたら楽ではない。

けれども好きなことに笑顔を振りまく旦那さんと、毎日自分が満足するために遊び倒して、1秒でも遊び倒す時間が足りないと、ひっくり返って泣いて私に伝えてくるこゆ、自分の好きなことを確実に自分の中に見つけてくる大ちゃん。そんな家族といる時間は幸せだし、豊かさの中でいかせてもらってる彼らといると嬉しいなっておもう。

 

そしてそんな家族と暮らせる自分が一番幸せなのだろうと思う。

だから今の私の心の中に愚痴や文句という引き出しはない。

 

そういう疑問が湧いたら、家族に相談をして、その中で自分で解決して行ける方向を自分で見つけて行けるとかんじているから。いつだって冷静になってみれば、素敵なそれぞれの個性が私を助けてくれることに感謝をする方がおおきい。

 

今の私はびっくりするくらい家族への不満が、ない。本当に、ない、笑。

家族に何かコメントありますか?ってもしインタビュー受けたら、毎日一緒に暮らしてくれてありがとう、ってことくらいだろうか。

 

私の今の暮らしが比較的穏やかなのは全ては自分次第と知ったから。

自分の育ちから苦しみ続けた時間を整理して、少しずつ、誰にも壊されることない自分にとって気持ちの良い自分に変わってきているから。もちろん、まだまだ、まだまだ、だけど。

 

これからもいろんなことがあると思うけど、自分をこえていこうとおもう。

生きることは楽じゃない、でも自分のことを好きな自分でいたいとおもう。

自分への誠意は家族への誠意。それは頭で考える平和じゃない、ただただ溢れてくるタイで経験させてもらったあの暮らしと、きっと一緒。

 

これからもずっと自分が思う豊かさが溢れる人になれるよう少しずつ歩いて行きたいな、そう思う腰痛で一人留守番する1日、笑。

 

こゆと休戦旅行するときまでによくなりたい、笑。