日々は優しさで溢れてる。

心に傷を抱えてきた幼少期。我が子を授かり、それに苦しんだ。けれどもね、山が教えてくれたの。いきてる価値は誰かが決めるもんじゃない。自然は平等に、生きるための恩恵をいつも与えてくれてた。生きることの喜びは自分で感じていくものだから。そうして今を生きることを積み重ねてる。

その30 ジャングル料理!

ジャックフルーツ、甘くなる前は野菜として使います。

 

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下処理中。ネバネバがスーパースティッキー。まな板を使えないのでバナナの葉をまな板がわりにして下ゆでします。忙しくしたくないから、朝のうちからのんびり火にかけておきます。写真ないけどこの後はスープにしたり、炒めてご飯のおかずに。ニンニクやガランガ、ライムリーフを使って。

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青バナナもそう。青いうちは野菜としていただきます。ここは南国なのでジャガイモはあまり手に入らないけど、これがポテトに似た食感。それからバナナチップも青バナナから作るそうです。しってました??

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ざっと25人分のカレー。ジャングルスタイル。  

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でね、こないだも紹介した気がしますが、ここにあるのは七輪と土で作ったオーブン。ピザとパンは焼けるけど火入れがちょっと大変。そしてクッキー的なものは結構難しい。

 

でもね、いろいろ考えると十分に満たされるものが作れるんです。フライパンで焼くホットビスケット。パンケーキにクレープ。やっぱり知っているから時々は食べたくなる洋菓子。無理なく減らしていって時々はご褒美。

 

電気オーブンがなくても十分に美味しいものが作れることをここでの暮らしで感じます。スチームケーキはもっとハードルが低い。

 

札幌の我が家にもオーブンがありません。市販のお菓子をあまり買わないから、子どもたちの気持ちを満たすために手作りグッズが必要かなあって思ってきたけれど、もうオーブンの必要性を感じていません。

 

それはあるもので自分で可能性を広げる方法をここの村長さんやその奥さん、シェンから学んだから。

 

帰ったらうちでもやってみよう。

スチームケーキ、ホットビスケット、おはぎにようかん。白玉ぜんざい。どら焼きだって作れちゃう。

 

あるもので楽しく暮らせる。パーマカルチャーってそういうことなんだなあ。。

その29地域でのつながり

を、ここで、ふっと感じます。でね、地域っていいなあって。

 

この村は地域のつながりがぐるっと回ってるんです。

 

学校の先生も同じ地域で暮らしてる。畑も持っていて野菜の交換したり、授業の合間に帰ったり。これって、いろんな意味があって、先生が家族の関係も感じながら学校でのその子に接することができるし、その子のいいとこも、気になるところも把握することができる。

 

日本の先生は、日常を子どもたちやその家族に見られたくないっていう人が結構多いようだけど(自分が保育士してた頃、そうでした)、そうじゃなくて自然に暮らしてる。そう、自然に子供達と接してるんです。

 

暮らしの中に子どもたちの存在があるからか、この子はいい子、悪い子、ってレッテルを貼ってないんです。で、子どもたちの声をよく聞いてくれてる。自分の主張ばかりする大人じゃないとこがすごい、先生たち。

 

何度も授業に参加して、言葉は全部わからないけれど、雰囲気から感じています。特に1日の中で、昨日会ったことのシェアや、一つのことをどうやって行こうかって話し合いをする時間がたくさんあって、隣のことふざけたりするけど、授業を邪魔してる感じじゃない。そして先生も子どもの話を丁寧にに聞いているんです。うちの息子とのコミュニケーションからもとても感じています。

 

子どもたちの育ちが大人に見守られて、大きな子が小さな子を見てるということ。だから大人は見守る存在。大きい子が小さい子に教えたり、付き合ったりしてくれてます。もちろん全員ではなくて個性があるから、付き合うことはあまりしない子もいてそれもオッケー。でもみんな大きな子を見て、学んで行くんです。

 

おばあちゃんたちへの優しさや人への配慮、大きな子への憧れ。小学校の先生の出来上がってるセルフではなく、子ども同士の心の通い合った大きな子の素敵な姿を見て学ぶ小さな子たち。

 

そうそう、もう一つ思ったこと。
街に住んでると、うちのそばは車が多いから、子どもたちの遊ぶ場所を選んで連れて行く必要があるんです。そしてね、連れて行ったら付き合う必要が。。子どもたちの遊びよくはつきません。1時間、2時間、半日、気づけば1日。付き合わねばならないんです。

そうして自分の時間を失い、家事すらままならないまま、駆け足で家事と子どものお世話だけして1日が終わる。

 

そりゃ、都市のお母さんたちはどこでもいつでも怒ってるわけだ!!外に出てしゅっちゅう見かけます。発狂してるお母さん、泣き叫ぶ子供。人間的にそれは半端ないストレスで穏やかなお母さんなんて演じられません。お母さん、悪くない。世の中の暮らしが彼女たちを苦しめてるだけなのだと思います。

 

でもね、地域のつながりを感じて思うこと。都市と違うこと。

子どもたち、それぞれ勝手に村のあちこちで遊んでるんです。すごく小さな子はお母さんとだったりおばあちゃんとだったり。でも遊んでるうちに大きな子が来てみてくれるからあずけたり、暮らしと仕事が一緒だから店先で遊んでいたり、子どもとかぞくのためだけに1日の全ての時間を費やすわけではないんです。

 

その地域の中で特定されずに大人の見守る目がこどもたちにめをむけられてるんです。

地域の中に大人も子供も、人がたくさんいて、それぞれが優しさとのんきさを持ってるからそれが気持ちよく循環してる。

 

学校が閉鎖空間ではなく、子どもたちも学校にいる時間の動きを拘束されるわけではなく、彼らはいつでも学校の外に優しさを向け、行動することを許されてる。彼らは信じられているのでしょうね。そしてちいきでお互いに信じてるから学校も閉鎖しない。

 

息子が小学生になり、地域地域と聞くけれど、つながりがないような気がしてしっくり行かなかった不思議が今、理解できたように思います。

 

地域はつながりがないと機能していないようなものなのだろうと思います。どんな人が住んでるか知って、笑顔でコミュニケーションが取れるくらいの関わり方を日常からしている状態。優しさと呑気さ、っていうのは醤油の貸し借りできるくらいの、存在の近さ、気楽さ。あのおばあちゃんは助けが必要な人だなって位のことは知ってるくらいに近いと地域は機能するんでしょうね。

 

つながりがあれば、お互いに意識するから、助け合うことができる。やっぱりお互いの状況を少しはしってないと優しさも使えないよなあと。

 

学校や幼稚園でイベントがあるときだけ、地域地域ってよく使うけど、もうわたし達親世代が地域がどうあったらいいのか、を知らないのだろうと思います。その日だけ、地域の人に手を借りても日常的な子どもの見守りにはならないのだろうなあと感じています。もしすでにそうなっていたらははおやたちはもっと穏やかにいられるはずだから。人の目を気にして子どもを怒ってばかりいる必要はないはずで。

 

地域の人たちも子どもはみんなで見守る、育んでいく存在だと思えるはずで。子どもはうるさい、介護の必要な年配の人はきたない。そんな言葉も出てこないはずで。。

 

つながりがたってしまったからこうしたことを言うようになってしまったのでしょうね。

 

こうした中に外国の人もいれば常に英語や異文化も学べるはずで、人との関わりも深く暖かくなって行く気がします。

 

地域の存在が煩わしいから今のようになっていったんじゃないか、っていろんな人がいうのを聞いたことがあるし、自分もそう思っていたけれど、本当はどうなのでしょうね。そういう少数派の人が行動を始めるうちに、人のつながる力が薄れていったのかもしれないし。

 

なんとなく、一つだけおもうのは、きっと、もっと昔、どこかの時点までは、日本人はもう少し穏やかだったのだろうと。豊かな自然の中に住む私たちは、それらに見守られて、トトロのおばあちゃんちが田植えをしてるあの雰囲気のように、こんなにキリキリしてなかったのだろうなあって感じています。

 

だってね、ここにいてもう150人以上のいろんな国の人に出会うけど、多くの人がにほんにいってみたい、っていってくれるのです。日本の文化が、雰囲気が好きだから。

 

たしかに資源に頼らず、車や電気製品のような技術や、おいしい食べ物を作るあげるという繊細さ、自然の中に神様を見る八百万の神の心。

 

日本もとても素晴らしいと感じています。世界の多くの人がそう思ってくれるのは、人の暖かさもきっとあると思うのです。昔からずっとそういうものがあって今も日本を愛してくれる人がいる。

 

もっと自分の生き方を、日本の島で暮らす生き方を大切にしていきたいなあと、心から感じる三年目のジャングル暮らし。

 

日本は素敵な島ですよ。

 

川に向かう山道で。遠くからバイクの音が聞こえるまでこうしてたちどまっては遊んでます。日本ではすぐ抱っこというのは道中がつまらないからなんだなあって感じてます。

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30人近くの滞在者でご飯。これくらいなら一気に作れるようになりました。子どもたちがご飯にありつくのに時間がかかるので別で食事を、と思ったこともありましたが、子どもたちはみんなと食べるのが好き。みんなと過ごすその雰囲気が好きなそうです。そうしてご飯を食べ終わった後は誰かと遊ぶ。関わりっていいですね。

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その28 遊暮働学!!をかんじたできごと。子ども編。

じゃ日本語を教えに行った時にこゆもいっしょにコユが私たちを真似て、金槌を持ってきました。ちょっと支えるのを手伝って自分でトントン。

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昨日は鉈で、竹に何度も打ち付けて切ったふりごっこ。

一昨日はキッチン手伝ってくれて指を切っていたなあ。

 

この日はココナッツミルクを作ってくれてます。滞在者のみんながやってるのを見て一緒に参加してることもしばしば。いろんな人の中だから興味をそそられ、学びがあるのでしょうね。

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村に行ったついでに大好きな川で水浴び。

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学校ににほんごを教えに行った時。コユもみんなを真似てサンドイッチ作り。

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 ジャックフルーツきりのお手伝い。これ、接着剤というかハエ取り紙並みにネバネバなんです。それでも手伝いたくて途中でギブアップ。いい経験だったね。

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シャワーしてたら思い立った。スライダーだ!!!うちの洗濯場でスライダーの研究してます。どうやったら早く滑れるか、にいちゃんと試行錯誤。

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私を手伝って竹の棘取り。

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15歳のにいちゃん、自分で基地作って、竹とってきて魚のスープ作ってくれました。嬉しそうにほうばるコユ。このワクワク感から育つものは大人には教えられないものなんだろうな。地域でたくさんの子どもが遊んでるということはそういうこと。

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遊暮働学。暮らしの中にいるから彼女の興味がそそられる。親以外の誰かもいてくれるから、そのタイミングで興味を持つ。

 

小さいうちに我が子とどれだけ暮らしを共にしたかってとても大切なのだと感じています。それが時には兄弟で、同じ村の人と。安心んできる存在と経験できることが彼らにとっての財産になって行くのでしょう。

 

都市での暮らしをしていた頃、私が知らなかったこと。今感じています。

 

親に付き合わせているのではなく、その中から彼らは自分で好きなことを見つけまなんでゆく。小さいうちの暮らしってすごく大切なもの。イベントではなく、暮らしをゆっくり共にすることで、彼らが生きる上で大切なものをそばにいる人が伝えて行くことができる。その中には人の愛も入っていて。私が親としてできることは、この時間をバタバタしないことで彼らの興味を持った時に経験を見守れるようにすること。

 

帰国したら、もっと暮らしを作ることを意識したいなあって思います。そうしてその時間を子どもと過ごすこと、誰かに一緒に過ごしてもらうこと。

 

今まで、休みになると、子どもたちが好きなことは何かなあって遊ぶ場所選びに悩んでいたけれど、いろんな場所を選んでは付き合う大変さも感じていたけれど、大切なことは私が暮らしを楽しむこと。暮らしの中での不安をなくすこと。

 

暮らしの中で子どもと楽しめることを見つけてみようと思います。そういう暮らしに変えて行こうと思います。

 

子どもたちは大人の思わくがないところの方が楽しめる。暮らしをなるべく自然の中に持って行くことでお互いに楽しめるのかもしれません。自然は老若男女問わず終わりのないプレイランド。

 

 

その27 トイレの壁作り、おわった!!

できましたー。。。よくやった私。終わらない歌を歌いながらの毎日、1週間以上やっていたな。

我が家のトイレ、シャワーが起動しました。

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もちろん日本人としてこれは外せませんね。古着の継ぎ合せに布を切って貼り付けました。

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材料から切り出してここまでよくやったなあって思いながら、でもこうして自分のうちを作ることに幸せを感じることができる喜び。壊れても自分で直せる喜び。

 

日本に持ち帰りたい気持ちをまた一つ見つけました。

なんでもまずは自分でやってみること。意外に自分でできることがたくさんあるように思うのです。

そしてね、自分でできる暮らしの心地よさを知ったときにシンプルな暮らしの気楽さを感じるのです。

 

それを一つずつ経験して、暮らしの中での不安を手放してみよう、そう思っています。

 

ここでの経験は全てが新しい。ここを旅したのではなく、ここで暮らしたことがかけがえのない経験です。

 

やった!! 

その26 学ぶということその2

学びの過程で大事なことの一つ。

心を通わせるということ。

先日のサタデーマーケットの時の出来事をまたお話しします。

家族でサハイナンの仲間より先にサタデーマーケットに出かけた私たち。私の体調がイマイチだったので先に引き返すことにしたのですが、その帰り道にサハイナン仲間とすれ違います。

 

子どもと旦那さんを残して来たことを伝えたいけど、とっさに英語ができるほど英会話力がない私は、みんなの乗った車に向かって「大ちゃん、サタデーマーケット!」とだけ叫びました。みんなはオッケーといって去って行きましたが、うちの家族がいるかも=見つけたら車に乗せてあげよう、ということは理解できたと思うのです。

 

ここにきた初めての年、英語ができないという自分の思い込みが邪魔をして正しい英語でなくては英語でないということが恥ずかしくてThank you,Hello以外の言葉をほとんど喋りませんでした。家族で来てるので英語でなくても何となく暮らせてしまうのです。

 

でもね、大きなコミュニケーションツールを一つ外すということはコミュニケーションを放棄してることになるようで、大事なことを忘れていたなと、今は思うのです。

 

共に暮らす中で心を通わせるということを手放そうとしていた、という感じ。でもね、これは英語をパーフェクトに使い熟すということではなくて、伝えたい、とか聞きたいとか、あの人のことを知りたい、とかそれを放棄してる、ということだったと思うのです。

 

言葉は身体の付属物のように思っています。相手が私とコミュニケーションを取りたいと思ってくれる心、表情、態度、仕草、それに行くつかの理解できる単語を聞き取れれば何となくは理解できるということを知りました。それに話の前後だったり、私はこの話がしたいんだと、(たとえばバナナケーキだったらバナナと米粉を持って話をしたり)それに関するものを示したりすれば伝わることがほとんどだとしりました。

 

ほとんど間違ってる英語かもしれない、ということを承知で今は、聞きたいことは何でも聞きます。あ、間違ってることの方が多くてきちんと伝えたいときは相手にこっちに気持ちを向けてもらわないと伝わりません。

 

でもそれがあれば伝わる。

 

学校での英語教育は受験のためのものなのだろうと感じています。だから忘れて行く。

 

私はいま、コミュニケーションを取りたくて使っているから、間違えたことは身体にすっと入って行きます。相手がそれちがうよー、って面白がって笑ってくれたことももはや自分にとってのネタ。単語帳よりよっぽど面白おかしく記憶に残ります。

 

学びの全ての基礎はコミュニケーションスキルなのではないかと感じています。英語も英語の時間にするより、外国人の先生が学校に一人いて、授業は週に一度でも、しょっちゅう顔合わせたらい、休み時間に外で一緒に遊んでれば自然に興味を持ち、その興味が学びに変わって行きます。

 

その外国人先生が同じ地域に住んでいたら、さらに心通わせられるし、あったときにコミュニケーションとれていいだろうと感じています。

 

日本のシステム、勿体無いなあー。もっと楽しく身につけて、もっと地域で人々がやさしい気持ちで日々を送れる方法があるのにー。。。

 

って感じています。言語を学ぶにはまずコミュニケーション。相手に興味を持たなければ、何も入ってこないし、単語を必死で覚えてもそのやり方じゃ身にならないからもったいないなあ。。もっと楽しく学んでもいいのになあ。。

 

そんちょうさんちのむすこくん、2歳半。うちのコユ、4歳。息子くん体格大きくてコユと同じサイズ。よく2人で遊んでいます。こんなに年が違うのに遊び込める。なんでかなーって毎日考えていました。でね、気づきました。彼らのコミュニケーション力もだけど、ツール もまたすごいんです。

 

手作りの車で坂を滑り降りる、その坂が赤ちゃん騙しじゃない。

水道管をつないで遊ぶ、水道管レゴ。ええ、レゴを買う必要はありません。この水道管、どこまでも繋がるし、何にでもなります。うちにある穴から伸ばした水道管を突っ込めば、遊びの空間が広がり、いつまでもケタケタ笑ってます。どちらかが遊びの世界を空間を広げて行くので年齢の違いも超えて、一緒に遊んでるようでそれぞれが違う楽しみも持ってるようなんです。

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この日のレゴはガソリンスタンドごっこ。給油中らしいです。

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そしてドライブ。この体勢で山道をガンガン行きます。しだれた竹を通り、草っ原を通り、壊れそうな狭い橋を渡るスリル。危ないことも彼らの限界も、気持ち良さもじぶんでまなんでます。

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その26 学ぶということ

さてさて先日のつぶやきの続きを。

 

私にとって学びの心地よさをここで初めて感じています。

 

先日のココナッツミルクを作るときの話、またしますね。ココナッツ選びから始まり鉈で割ってミルクを作って行く作業。何十回も見たその作業、ついに先日、私がサハイナン仲間に伝えるときが来てしまいました。

 

だってね、この殻を割る作業、鉈のスキルもいるし、力作業。間違えたらスパッと指を怪我するし、ちょっと怖かったんです。けれどもね、ここに9ヶ月もいるから聞かれたことに自分で答えたい、と思い、答えました。

 

「I show you!」

 

そうして自分でココナッツを割る作業をこなしつつ、出て来た疑問を一つずつクリアして行きました。動作をするということの中で、見て来ただけでは解決できないことがたくさんあることをまたまた知る私。4歳の娘が私の疑問にさくっと答え、子供の観察する力の強さを改めて知ります。

 

彼らはただ見てるだけじゃない、好奇心という大きな学びの窓から観察しているんですね。それをとても感じました。

 

行動の中で生まれる疑問を解決したとき初めて、知るということが自分の細胞になるように思います。ここで初めて自分の生きるための知恵になる。

 

それに気づき、ハッとして、私は今改めて学びとは何かを感じています。

学生時代に丸暗記したことは、九九ぐらいしか自分の人生で活躍してくれてなかったのです。

自分が好きなことであれば、またはそのことに好奇心があれば見たことは自分の中に取り込まれる確率が高いと思います。まさしく小さな子どものように。

 

けれども、教えられたこと、テストのために覚えたことは自分が生きる道を助けてはくれない(もちろん全てとは言いません)のではないかと感じています。

 

競い合う学びは、その人が生きることをダイレクトには助けてはくれないのではないかとおもっています。自発的である学びが、自分の細胞になる。

 

私は今、学びなおしています。たくさんの資格を持っているけれども、暗記だけだったのでいまはまるで役に立たないこの経験を経て、学びを自分の細胞にしていきたいなと。

 

だから我が子にも彼らの経験を待てる母になりたい。そうなれるように今日も学んで行きます。

 

それを感じたシンプルな暮らし。自分の身体と、人とのコミュニケーションをしたいと思う気持ちがあれば学んで行けることは限りなくあるのですから。

 

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火を使うこと、鉈を使うこともこの学校では日常です。暮らしと学び、気遣い、全てがここでは循環しています。先生が必要以上の準備もしないし、必要以上の親への気遣いもしすぎない、信頼感家で成り立ってるから、建前ばかりのお便りや挨拶もなく、人と人の関係がとても深く成り立っているように思います。

 

そして先生がね、子どもの話を真剣に聞いてくれるから、こどももきいてくれるのだろうとおもいます。

 

ひとりの先生が35人もの子どもたちの学力を確実にあげなくてはいけない、という緊張感がない分、フレキシブルに授業を展開し、個々との関わりを持ってる。そこには、日頃から地域でつちかってるコミュニケーション能力がフルに使われ、異年齢で過ごす時間もとても自然。

 

これは生きる上でとても大切なことだと感じています。信じ合うことで人同士を大切にしあう。本当に目が輝いてる彼らから学んだこと。

 

コミュニケーションは生きる上での基礎、です。

 

 

 

その25(大人だってたくさん寝よう!)

今の我が家は家族で毎日11時間くらいねています。日が落ちた7時ごろから朝の5時までは寝ているから少なくとも10時間は。。

 

そんな暮らしを日本ではしたことなかったし、たくさん寝て方がいいからなるべく寝る、と頭で感じてそうしてきた自分がいます。

 

でね、ここで暮らして気づいたこと。

ここの村の人たちはなるのが早いから起きるのも早いのです。市場は2四時には開店しています。っていうことは2時くらいからみんな、屋台に並べるおかずを作って、準備しているってことになります。

 

みんな笑顔で陽気でフレンドリーなのはそこからも来ているのかもしれないなあって感じています。

人間の身体は暗くなったら寝る。目が覚めたらおきる。だから昼間は心が踊り、体を動かす力が湧くのだろうと感じています。

 

寝ている間が身体の修復時間、と聞くけれどきっとそうなのだろうと思います。たくさん寝るとあまり病気になる気がしないのです。子どもが毎日寝ただけで元気になるのはそういうことなんでしょうね。

 

と同時に大人にはそんなに睡眠時間は必要ないのではなく必要なのだろうと思います。

 

今日もたくさん寝て身体を動かしてたくさん笑って、ぐっすり眠りたい。たくさん寝た方がいいですよー。

川で水遊び。 

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うちの前で息子のうちを立ててます。村のにいちゃんの真似して基地作り。鉈を上手に使っています。

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完成!!火を起こしてバナナ焼き。遊びがリアル。だから飽きないのだと思います。

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