トレーナーを作りました。
続いてトレーナー特集。
旦那さん用と。
マホエアネラさんの型紙で。
生地は布の店あかねさん、とリブはSMILE さん。
私のー。
型紙はマホエアネラさん。
生地は布の店あかねさんと、SMILE さん。
息子くんの。この生地はキルトなんだけどふわっと肌触りが良くて小さい人にも着て欲しい。
マホエアネラさんの型紙がお気に入りで最近よく作ってます。アンの木さんも、ちゃきステさんも好き。
マホエさんとちゃきステさんはモニターさんがいろんな作品を作って載せてくれているのが楽しくて、型紙は決して安くないけれど、それだけの価値はあるなあって思います。。私もいつかモニターしてみたいなあ。
アンの木さんも一番はじめに大人買いしたお店。やっぱり店主さんの雰囲気が出るのでしょうね。興味のある方、ホームページおススメです。
男の子のボトム。
平面から立体になると思っていたものと変わってきます。大抵はもっと可愛くなるのだけど。そんな不思議にワクワクしながら縫っていく日々。
こちらはハーフパンツとスパッツの組み合わせ。男の子用です。
マホエアネラさんの型紙で。
生地は猫の隠れ家とmochamochaさん。
もう一つ、お友達がスリッパっぽくないルームシューズをリクエストしてくれました。型紙を使って暖かめのシューズを作ろうとしたら靴のサイズが激変。五回作ってようやく完成。もう作りたくない、って思いはじめたから5回目にできなければ、お友達にごめんね、私のできる以上のことだったみたい。とあやまろうとおもっていたものの、完成。できてみると経験がかさなり、次はまた何を作ろうかと楽しみが増えました。
これが 好きなこと のちからなのですね。経験をくれてありがとう。
rick rackさんの型紙で。
SMILEさんの生地で。ボタンは100均。
テーパードパンツ 第二弾
写真が載せれなくてなかなか更新できませんでした。パソコン、難しいなあ。
マホエアネラさんの型紙でテーパードパンツ。あったかくて柔らかい、息子くんのお気に入りです。
型紙:マホエアネラ
生地:猫の隠れ家
動きやすくてひやっとしない。男の子イコールジーパン、チノパンだと思っていたけど、やっぱりふわっとするのがホッとするんですねえ。この気持ち、だいじにしてあげたいなと思います。
みんなで囲む食卓。
できたできた。テーパードパンツ。柔らかくて履いた時にあったかい生地にしたかったからこうして作って見ました。息子くん、大満足してくれてよかった。
リブを変えて作ってます。
マホエアネラさんのテーパードパンツ。丁寧な説明書でサクサク出来上がりました。小学校二年生の息子くん。まだ可愛い雰囲気も大好き。
型紙:mahoe anelaさん
最近我が家に遊びに来てくれるお客様が増えて、夕飯を家族以上の人といただいています。トモエのお友達、パーマカルチャー研究所にあそびにきてくれたかたがた。。
子どもたちは毎日楽しみ、私は人様がいるからと、気取った料理を出すことをやめてみました。本当はね、おもてなし料理だったらもっと喜んでくださるかもしれない。けれど私たちにとっての日常であるからそんなに頑張らなくてもいいのかもしれないって思っています。ただ一緒に過ごす時間を心地よくいられたら。そうして人とか変わってゆくこと、関わることの心地よさを経験してゆくこと。
それが我が家の教育の一部なのかなって思っています。子どもたちだけでなく自分たちも育ってゆく。人として素直で気持ちの良い大人でいたいと思うから。
我が家に来てくれてありがとうございます。こうして来てくださって心地よいって思ってくださる方と、機会を作って持ち寄りバイキングパーティできたらいいな。
日々のあなたに想いを込めて。
できたできた、コユのダブリエ。片足立ちしてます。
クッキーのボタンが可愛くて目立つようにシンプルに。
言葉でなくてもいいから、想いを載せたくてメッセージタグも付けました。誰に届くかわからない量産品にはない「あなたへ」の思い。最近思うのです。
こうして思いを乗せていくことが大事なのかなって。日々日々、その瞬間、あなたへの想いを送ること。これがどこかで、通じてくれる気がしています。我が子が今日も思い切り楽しんで、事故もなく笑って帰ってきてくれること、お腹を満たして今日を過ごせること。
それはそう願ってくれる人がいるから循環して成り立っているのかなって。
そうはいいつつ、このダブリエのタグは結局私が買ったものの中からコユが自分で選んだんです。「happy,always with you」
コユから私へのメッセージ、私からコユへのメッセージ。
そうして伝え合う気持ちがこもった服。毎日着るものだからこそ、想いを込めたいなと思っています。母である私からのお守だよ。喜んで着てくれてありがとう。
さてと札幌の交通資料館に行きました。病み上がりきってないけど大ちゃんの希望を叶えるべく、三年間の休館前日に。
昔の電車とバスの展示が面白かった。こんなレトロなバスがかわゆくて。
館内は小さなスペースに運転席の模型や昔のハンドルや切符などが 並んでいて、大ちゃん大興奮。私とコユはあきて早々に屋外展示に行くことにしたのだけど、大ちゃんはいつの間にやらそこで出会った同じ歳くらいのこと遊んでました。それもいつもの友達のように、ちょっとやめてよー、とこうしてみようよ、とか、身体を摺り合わせながら遊んでいて、小さいうちからこういうことができるっていいなあって感じました。だからこの人たちを待とうと決めてコユが飽きないようにかんがえる私。
きっとトモエとタイで過ごしたおかげだと思います。人との心の距離をちかくできる。相手を悪くみない、そのまま受け止める。
すなわち、「人を信じてる。」生き方をしてるんだろうなあって大ちゃんの器の大きさにただただすごいなあって感じました。
それから「今を楽しむ」いきかたをしてる。出会ったあなたと楽しめる。
昔は家の外に出たら誰かしら子どもがいて一緒に遊んだと言います。タイの村もそうでした。
こうして子ども同士が自然に人との関係を作り、信じ合って助け合って大人になれたら、大人になっても信じあえる社会なんだろうなあ。
そういう世界がタイの村にはありました。まずは自分のそばからでもいい、きっとそうできるんじゃないかなあ。
日々の幸せはそこからな気がしてます。よし、しあわせにいきるぞ。
延々と待った交通資料館、私にとっても学びの時間でした。大ちゃん、ありがとう。
一人は一人のために。
久々の更新。札幌は紅葉が進んで朝晩はすっかり寒いです。でもこの時期がまた綺麗なんだよなあ。
チクチクブームなのでちょっと公開。トモエのお祭り用にレッグウオーマー作ってみました。
あまりに楽しいので違う布でも作ってみます。
寝ても覚めてもチクチクチクチク。やらせてくれる子どもたちに感謝です。ラッピングは端切れで。
そしてもうひとつ。最近の我がフィールドでのお楽しみ。火起こし。
足るを知る。ということはどういうことかに気づいてしまってから、買い物に行くことや出かけることがまたグッと減りました。あるもので、暮らす。
もちろん、可愛い雑貨を買っても、好きなお料理をしても、ディズニーランドに行ってもいいんです。でもね、一番大切なことは日々を楽しむこと。楽しみ続ける暮らしが日常にあること。そして自分の次の世代の人間も同じように暮らせること。
そう考えた時に、ふとひっかかることがありました。自分の次の世代の人が同じように暮らしていけるのだろうか、と。エネルギーを使い続ける暮らしには限界があります。ものを増やしたぶん、ゴミになります。美食をしつづけたぶん、子どもたちはまた美味しいものを食べるために、歯を食いしばって仕事をする必要になるのかもしれません。
今は足るを知らない暮らしをしているのかもしれない。だからなるべくあるもので暮らす。なるべく、でいいとおもうのです。こうしてなるべく、とおもう人が一人、また一人って増えてくれたら、消費が減ると思うから。もう少し、世の中のスピードが遅くなるかもしれないから。
自分のペースで、毎日、毎日、暮らせたらきっとうつ病が減るんじゃないかなって気がします。
もっと自分に優しく生きてもいいんじゃないかな、っておもうのです。常識は、本当にその通りにする必要があるのだろうか、って最近疑問に思います。
だってね、日本の外に出るとその常識がなくても、人々が優しい気持ちを使いあいながら生きている姿を目の当たりにしたから。私たち家族が、お互いの暮らしをそっと見守り、そっと感じ、毎日穏やかに暮らしている人のなかで暮らした村はそんな場所でした。
「一人はみんなのために、みんなは一人のために。」
その言葉を浴びながら育ってきた私。自分は二の次にしてみんなのために尽くすこと。それは当たり前でした。だから自分が自分のために立ち止まったり、優しくしたりすることなんてしてこなかった。そうして生きてきた時間が、我が子が生まれてくれた時に、苦しみに変わりました。突発的な喜びはあげられるのに、その喜びを作るために疲弊して疲れて怒ってしまう。じゃあ、自分はどうしたらいい??
そう考えた時に思ったのです。私自身が、いつもある喜びが何かわからなくなってることに。子どもといることが24時間、負担でない人は少ないと思います。子どもたちはいつでも、私だけをみて、とアピールするから。そうした時に自然と心でぶつかってしまうのです。
腹を痛めた我が子にはできるだけ、満足して生きて欲しい。そう願うのがお母さんだとおもうんです。けれど、それができないから、苦しむ。たぶんね、子どもが生まれてきてくれて、夫婦関係が変わるのはこの違いだとおもうのです。これはなかなか、お父さんには理解し難いことなのだろうと感じています。家族を思うからこそ、仕事をしてくれるお父さんに、伝えて共有してもらえたら、夫婦関係が温かいものになるけれど、子どもと長い時間過ごす経験を自らしてくれる方にしか、なかなか伝わらないであろう部分。
なぜお母さんはキーキーしがちなのか、の答えはそこなんじゃないかと思います。子どもを産ませてもらって初めて知る苦しみ。この苦しみそのものが自分でわからないから、怒ってしまうのだろうと感じています。
そのお母さんの幼少期が満たされたものであったらきっとおこらなかったことだと思います。高度経済成長期、鍵っ子だったり、お父さんが不在がちでお母さんだけに育ててもらった人の苦しみ、な気がします。あ、でも血のつながらない人にでもいい、深く愛してもらっていたらその症状は軽かったかもしれません。
「自分は自分のために、みんなも自分のために」こうして幼少期を生きた人は、優しいです。自分にも、人にも。きっと世界に対して優しいのでしょう。誰かの苦しみに気づける感を持っています。「人のために」というよりも早く、感が働き、身体を動かしてくれるのです。
大ちゃんやコユもそんな人です。もちろん、その日によりいろいろありますが、その時々に動いてくれるのです。もちろんいざという時にはいつだって文句も言わずやってくれる。すごいなあと思います。
人は一人では生きて行けません。他の人力が必要です。本当にね、暮らすことには人力のエネルギーが必要なのです。
人間は完璧じゃない。けれど完璧でなくても心の通いあう関係があれば笑顔で生きていけると思うのです。
自分が満たされていれば、優しくあれる、と私は感じています。
「自分は自分のために」
これに満たされた時、人との関わりが欲しくなる気がします。そしてそう思った時に優しく関わろうと思うと思います。
私が 足るを知る という言葉を頭でしか分かっていなかったように、言葉は、相手の経験が自分の経験とリンクしてその人の腑のなかに落ちた時、自然と行動に変わってゆくのだと思います。行動に変わった時に初めて 理解できた 、ということができるような気がします。
「一人はみんなのために。みんなは一人のために。」
この言葉を思いついた人はそう行動できたのかもしれません。あくまでその人の言葉だったのだろうと思います。本当はどんな意味を持っているのか、今の私にはわかりません。屁理屈ではなく、本当に、素直に、わかる方に、聞きたいなって思います。
言葉で伝わることって少ないのかもしれません。
だからこそ丁寧に旦那さんと、わがこと、周りの人と、自然と、物と、接してゆく必要があるのかなとおもいます。
そうして、この自分の常識で行動することは、今、目の前にいる人にとって優しいのかを問うていく必要があるのではないかと感じています。
とまあ、深いとこまで考えてしまいましたが、火を見ていると心が落ち着きます。この日は娘ちゃんと、次の日はお友達の子と、いつまでもやっていました。火をつけもやすことは人間のエゴかもしれないけど、火は自然の一部な気がするわたし、こうして自然はいつも私たちを助けてくれているのですね。
手仕事
今日はトモエへ。もうじき、年に一度のお祭りを控え、準備に忙しい母たち。私は母さんの夜なべで、レッグウオーマーとあずま袋風、ショッピングバッグを製作。
レッグウオーマーは大人用と子供よう、赤ちゃん用。 我ながら上出来。
買い物袋は丁寧に作りたかったので、ちゃんと布を仕入れたのでちょっとバザーにしては高いかな。けれど、納得のいくもので、使えるものを並べたかったから。
毎晩毎晩夜なべをしながら、ふと考えていました。私の作ったものはロックミシンもないので生地の裏側は機械で作ったようなうつくしさはありません。だから、売ることに少し抵抗がありました。
切り端にジグザグミシンをかけただけ。こんなものじゃ売れないかな。もっと完璧なものでなくてはいけないかな。。
けれどね。
けれど、私は思ったんです。人間が作るものに完璧なんてない。
タイで住んでいたお家もそうでした。使うお皿も生活グッズも自分で作ったもの。
見た目は素朴。
でも、これは自分で直せるんです。壊れても焦らず、壊れちゃった。って笑っていられる。
生きていくぶんには何にも困らないのです。
だからね、気楽でした。壊れることを前提に大切に使って壊れたら自然に返すか直す。
ただそれだけ。
そう思った時にふと思い出したことがあります。
私は自分の子育てに完璧を求めていたんです。
いい幼稚園を探し、育児書を読む。子供と自分の関わりで自分を責め続ける。
この完璧さは生活の端々にあわられていました。完璧に家事をこなし、人との付き合いも完璧を求める。だから、1日を過ごして夕飯を終える頃にはへとへと。
それなのに、これから皿を洗い、洗濯を干し、部屋の片付けをしないとならない。子どもに怒鳴っちゃならない。旦那さんのご飯の支度もまだ待ってる。
帰ってきた旦那さんを捕まえて私が今日大変だったこと自慢をしながら、ご飯を食卓に出していました。
せっかく過ごす夫婦の時間。私は自分がどう家族と過ごしたかったのかイメージしたことあったのだろうか。
仕事でも家庭でも完璧を求められるから、自分一人の時ですら完璧でいようとする癖がついてる。
そう思いました。私はそれを手放したい。
タイでの生活は私のそんなところを根こそぎ変えてくれました。
人間のすることに完璧なんてないのだと。これを前提にせいかつしたいと思いました。
私がしたいことはただ一つ、日々愛をもちながら生活すること。
そのためにはこの完璧さはいらない。手放そう。今はそう思いながら暮らしています。
だから自分の作ったものも外に出してみることにしました。使うぶんには強度も実用性も、見た目も素晴らしいと思う。
既製品と違うのは裏側の始末が完璧でないことと、クレームは受け付けませんということ。そして、思いを込めて丁寧に作ったということ。
壊れたらそれぞれが直せばいいと思うのです。それくらい自分でできる方が暮らしに不安がわきません。家の修理も電化製品の修理も自分でできたらいいと思いませんか?
完璧でないぶん、私は自分の作った作品を誰かに届ける時に、壊れた時に直す方法を添えておこうと思っています。それが、私からそれを使ってくれる人に送る気持ちなのです。自分を思ってくれる人がいる、きっとそれが人を元気付けると今の私は思っています。
私は量販店の安い服がアジアの人たちの安い賃金でできているらしいことに悲しみを覚えます。人々が皆、支え合ってお互いの生活の幸せを祈って暮らせたらいいなって願っています。
私たちが量販店でものを買うことは、彼らの仕事を支えているのではないような気がしているのです。
幸せの経済学という映画を見ました。それが心に響きました。わたしたちのものが豊かになるにつれ、貧しくなる人が増えるというのは本当かもしれない。
そう感じています。私は、幸せでいたいと思います。けれども、あなたもあなたのお友達もこの世の生き物すべてが幸せでいてほしいと願っています。みんなで幸せでいられたらいいなと、夢を描いています。
私が贈った手作りのものたちは、保証も、責任もないけれど、その人とその家族を思う気持ちを込めています。そんな自分の考えがあるから、だから、わたしの作品たちを外に出していこうと思っています。それがわたしが伝えたいこと、わたしが生きている中で残したいことだから。
手仕事は穏やかな生活を祈る気持ちがこもっている気がします。だからわたしは手仕事を続けます。じっくりゆっくり自分と向き合いながら。